はじめに
-目次-
第1章  祈れる自分になるために
・ 真の神さまの前に立つためには  
・ 「ありがとうございます」という言葉
・ チャンスは今
・ 祈れる自分になるために
・ 祈りの神さまのメッセージ
・ 祈りの練習には感謝と報恩の
    2つの柱がある
・ 感謝と奉仕は本物へのパスポート
・ 本心を呼び醒ます「ありがとうございます」
・ 真理を学ぶ
・ 神我一体への道−感謝と報恩の誠を尽くす
・ 神さまから見た正しい生き方・祈り方とは
・ 本心の自分を知る
・ 本心の自分を生きる
・ ありがとうございます護摩
第2章  祈りの練習−本心開発の実践
・ 神さまに心を向け続ける
・ 神さまの助けを受ける
・ 全託は絶対条件
・ 謙虚に! 素直に!
・ 環境は心の鏡
・ 光と闇
・ どんなことも、プラスに受ける
・ 言葉の力
・ 真剣な生き方−神さまの御心を生きる
・ 責任ある生き方
・ 全力を尽くす
・ 与える心と絶対奉仕
・ ほんとうのプラスを与える「人助け」とは
・ 感謝の真祈りは、与える心の極致にあ
・ 質素に生きる−いのちの調和を実現する
・ 業想念、虚栄心と執着心を捨て去る
・ 縛りを解く・自由自在な本心の自分に戻る
・ 思いの「借り」と、恩返し
・ 大切な、本物との交流
第3章  真実の祈りを生きる−すべては
    神さまの愛の現れ
・ すべては神さまの愛の現れ
・ 神さまが必要とする人となる−神意に沿う
・ 本心の喜び
・ 真の祈りは天地の呼吸
・ 宇宙絶対神
・ 天之御中主神の御心
・ 中心は天照大御神
・ 真実の祈りを生きる
・ 7つの確認のお祈り

「ありがとうございますノートから」
小冊子「ありがとうございますノートから」 -Web版-
「ありがとうございます」のすばらしいHPからデザインを編集し転載させて頂きました。
ありがとうございます。
古(いにしえ)より求めた頂(真理・悟り)への道は険しく様々ですが、この時代、シンプルな道が開かれているようです。
あなたと私、みんなすでに神様と一つ、みんな救われている、みんな悟っている、それに気づかせてあげましょうというのが、言霊幸ふ国である日本(日の本の国・の本の国)に降ろされた純国産「ありがとうございます」です。
浜松の竜泉寺の故・井上義衍ぎえん老師が「お釈迦様の暁の一見によって人類は救われた」と言われています。「なんだ、すべてが悟っている存在ではないか。」と気づかれたのです。お釈迦様の番組では山川草木悉皆成仏、一切が救われているのです。
救う側と救われる側が一体である。非対立、絶対他力のショート真言・言霊「ありがとうございます」で一歩でも同じ番組に近づきたいものです。
この小冊子は、中心核「ありがとうございます」に向けて求心力を与えてくれます。是非味わってみてください。
小冊子「ありがとございますノートから」を1ページのファイル(208kb)に収めました。どうぞご自身のHP等にご自由にご活用下さい。
ありがとうございます。

てんせき舎

ありがとうございますノートから

  
     ありがとうございます
はじめに

 「ありがとうございます」という言葉は 本心を引き出し、本心を輝かすための最高の祈り言葉です。日々瞬々刻々『ありがとうございます』と心に唱え続けて生きるなら、真実の人生を歩むことになり人生の意義も自然に解明されるのです。
 
 この世の人生は短いものです。あと何年ぐらいは生きられるだろうと予定していても、明日には死んでこの世に居ないかも知れないのです。この短い人生において何が一番大事なことか、よくよく見極めなければならないのです。

 先ず、自分自身を正しく知ることが大切です。本当の自分・本心の自分を、しっかりと把握することによってのみ、自己の天命も人生の目的も、明らかになるからです。本当の自分とは何か? 肉体なのか? 魂なのか? 生命なのか? 自分自身を深く深く掘り下げ、心から納得できる、真実の自分を見出さなければならないのです。どの自分を掴むかで、その人の人生の目的も生き方も、必然的に定まってしまうからです。

 本心の自分にとって満足できる生き方とは、永遠を見通し、全宇宙を眼下に収め、置かれた立場で、神さまの御心である最高表現を自分の世界に実現し、全宇宙のすべての表現を自由自在に味わう生き方です。感謝に始まり感謝に終わる生き方こそ、本心の自分の自覚を深め、本心の自分を光輝かすものです。

 『ありがとうございます』と唱えることは、神さまの働きと一つになり、神さまの側に立つことです。どんなに泣き叫ぼうとも、助けを求める心では、神さまの御心に波長が合わないので、助けを受け取ることは不可能です。神さまの助けを受けるのも、無限の段階が有ります。いつまでも自分に合わせて助けてもらおうとするのは、求める心です。本心の心をしっかりと生きるということは、常に神さまを中心に・神さまを第一に、何よりも神さまへの感謝と奉仕を最優先して、神さまとの交流を密接にすることです。

 真実の祈りには、絶大なる力が在るのです。この真実の祈りを、祈れる自分・祈る自分に成ることが、本心の自分に戻ることです。
 この世に神の国(地上天国)を実現させるには、本心の自分が自由自在にこの肉体を使って、真・善・美・聖を表現してゆかなければならないのです。一日も早く 本心こそが真実の自分であると思い返して、この肉体の場に本心の無限の大光明を輝かせてゆかなければならないのです。業想念{ごうそうねん…五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)、三惑(むさぼり・いかり・おろかさ)等々}をつかんでその奴隷となり、七難八苦を引き寄せて地獄絵図を描くのは愚かしいことです。この肉体の場に本心(神の御心)、即ち 神の愛を・神の知恵を・神の生命を輝かせてゆくことが、真実の人生の目的です。そのためにはまず、徹底感謝の心で神の御心(神の愛・神の知恵・神の生命)を受入れてゆくことです。

 現実ばかりを見ていては、現実から心に取り入れたものしか表現できないのです。移り変わる姿や浮かび出て来る業想念に囚われない為には、一心不乱に『ありがとうございます』と唱え続けることです。『ありがとうございます』と唱え続ければ、必ず神さまの大きな加護を受けて、本心の感謝の心が輝き出て来るのです。先ず『ありがとうございます』と唱え続けてみることです。そうすれば心に光が射し込んで来て、心が明るく・安らいで来るのが良く判るのです。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・・・



ありがとうございますノートから 

 
真の神さまの前に立つ為には

 人の本体・本源・根本・本心とは、天照大御神です。即ち新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!の存在です。天照大御神は常に自ら輝くと同時に、他を照らす働きをしているのです。だから、無限の無限の輝きが内から湧き上がってくるのです。

 井戸の水も汲み出せば汲み出すほど、底から新しい清水が湧き出てくるのです。それと同じように、人も働いて働いて働いて、与えて与えて与えて、自分の器を空っぽにすれば、内奥から神さまの知恵も愛も力も無限に湧き出てくるのです。
 これを逆にして、井戸の外から汚水を流し込めば、底にヘドロが蓄積して、清水は湧き出てこなくなるのです。人も他の助けを受けるときは、他の思いを心に蓄積して、本心の輝き出るのを妨げることになるのです。
 
 人は神さまの前に立ったとき、ほんとうの自由と平等に気付くのです。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という愛のプレゼントは、すべてに平等に降り注がれているのです。
 そして自分の完全な自由意志で、何でも感受できるのです。即ち無限の無限の選択肢の中から、何を選んで受けても自由なのです。無限の無限のチャンネルのどの番組を選んでも自由です。また、大きく全体をつかむのも、小さく部分をつかむのも、すべて自己責任において自由自在なのです。

 神さまからの教えも無限の種類の無限の段階があるのです。どの教えを受けてどのように味わうのも、すべて自分の自由なのです。自分が自由に選んでいるのだということを忘れると、教えに縛られ、その奴隷になるのです。どんな教えにも言葉の縛りがあるのです。

 言葉の縛りから自由になる為には、自分の自由意志で積極的に言葉を選び続けてゆくことが大事なのです。本来自由自在であるはずの自分がなぜ縛られるのか。それは自分から積極的に自由自在性を発揮しないからなのです。

 光を灯せば闇は消えるのです。大きい光を灯せば、小さな光も消えるのです。マイナスの言葉の縛り、小さなプラスの言葉の縛りから自由になる秘訣は、より大きなプラスの言葉を、一瞬一瞬新たに、積極的に駆使し続けることです。 
 無限の無限のプラスの言葉を選んで駆使し続ければ、すべての言葉の縛りから自由になれるのです。
 無限の無限のプラスの言葉は無限の無限の自由自在と本質を一にするからです。

 真の神さまの前に立つ為には、真の神さまと対面する為には、無限の無限のプラスの言葉を選んで、その言葉を繰り返すことです。
 最高の言葉に絞り込んで、一点集中して、その言葉を反復すれば、必ず神さまの無限の無限の輝きを感受できるのです。
 言葉は心の向きを定める道具です。
 選んだ言葉を一点集中して、一心に唱えることによって、心の方向をしっかりと定めることができるのです。マイナスの言葉を使えば、マイナスへ心は向くのです。プラスの言葉を使えば、プラスへ心は向くのです。最高のプラスの言葉を使えば、真の神さまに心が向くのです。
 心の向きさえ正しくなれば、自然に神さまを感受することができるのです。



ありがとうございますノートから 

 
「ありがとうございます」という言葉

 『ありがとうございます』という言葉は、宇宙絶対統一神の究極の名前です。この神名(かみな)を唱えることによって、宇宙絶対統一神との交流・一体化が、加速度的に促進されてゆくのです。本来本心の自分は、神さまと一体なのです。『ありがとうございます』と感謝をし続けていたら、神我一体感が失われることは無かったのです。ところが本心の自分の呼吸である、『ありがとうございます』と唱えることを忘れた為に、本心の心が意識朦朧と気絶してしまったのです。

 本心の心の意識を覚醒させる為には、『ありがとうございます』と感謝し続けて、呼吸を取り戻して、神さまのエネルギーを一杯吸収する必要があるのです。ただひたすらに・一途に・一心不乱に・真剣に・本気に・命懸けになって、『ありがとうございます』と唱え続ければ、必ず速やかに本心の意識が蘇って来るのです。感謝が自然に湧き上がって来るようになれば、本心の自分が蘇生したことになるのです。そうなれば一瞬一瞬感謝に生きて、神我一体感・無上の幸せを味わい続けることができるのです。

 「ありがとうございます」という言葉は、言霊で解釈したときに正しい意味がわかります。
 これまで救う側に立つ神仏や人が、あまりにも自我を出し過ぎたのです。自我を滅却し、謙虚にしりぞいて、宇宙の大神さまのみを、前面に押し出すところを、逆にして自分を出した為に、枝葉にとらわれさせ、対立を生じさせたのです。すべての神仏を束ねる宇宙の大神さまが、前面に出て来なければ、収拾がつかなくなっているのです。「ありがとうございます」は、世界平和の為の最後の切り札です。

 「本当の神様とは何か」これが一番大事です。本当の神様は「全ての全てなる神様、唯一無二絶対の神様」です。先ず、「神様」という言葉の語源の意味から考えてみたいと思います。大体五つに分けて、神様の働きを考えてみましょう。
 先ず、表現に現れる前、即ち相対の両極に分かれる前の「絶対」があります。「同じものを二つと作らない」「二度と同じことを繰り返す必要のない」だけのものを「絶対」の中には全て持っています。
 その絶対の中から「創造」の働きが出てきます。「絶対」にある「相対の両極」を全部両方へ振り分けて、それを「らせん状に組み合わせて」複雑無限というぐらいの、もの凄い組み合わせの働きがあるわけです。そして全てを完璧に全てを尽くして組み合わせた表現というのが、神様の最高表現です。だから、最高に素晴らしい表現だけではなく、その中に一番下から一番上まで全部揃って、頂点に最高表現の姿があり、全部を総括したのが本当の最高表現になっているのです。
 「神様」という言葉も、
 「隠身の神・かくりみ」が絶対の神です。
 「仮凝身の神・かごりみ」が創造の神。
 「耀身の神・かがりみ」が統一の神。
 「翔身の神・かけりみ」が神通自在の姿の神。
 「限身の神・かぎりみ」が現実化させる、愛の心ゆえに自ら限定した世界に下りて力を揮う神。
 唯一無二の絶対者のすべての働きを総称するのが、この『神』という言葉です。

 絶対神をどの立場から眺めるかによって、その観方に違いが生ずるのです。絶対神を光源の中心としての働きと見る時に、カクリミ(隠身)と言うのです。相対の両極を組み合わせる働きとして見る時に、カゴリミ(仮凝身)と言うのです。光の極点からすべての表現を一大統一する働きとして見る時に、カガリミ(耀身)と言うのです。神通自在な光の流れの働きとして見る時に、カケリミ(翔身)と言うのです。愛の心で光の自由自在の動きを限定する働きとして見る時に、カギリミ(限身)と言うのです。いずれも立場を変えて絶対神を眺めた時の、絶対神の働きを言い表しているのです。約めて言えば全てカミとなるのです。
 「ありがとうございます」にはその全部が含まれ、究極の神様の名前、全ての全てなる神様の名前です。

 『ありがとうございます』とは、
 
 「あ」(絶対・本源・光源・光・あかり)
 「り」(ラ行・螺旋状にすべてが生み出され組み合わさる・創造)
 「が」(輝きに輝く・無限に無限に輝く・統一)
 「とう」(相対のすべてが十字に組み合わさり、大調和する。と・・・尊し、う・・・生まれる・うれしい)
 「ご」(凝り固まって凝り固まって。物質化して物質化して・限定)
 「ざ」(光・命がさらさらと流れる・変化無常)
 「い」(いのちが輝いている、躍動している・命・生きる)
 「ま」(まったき、全て・完全・完璧)
 「す」(絶対へ戻る・すべて・根源・素)
 「ます」(弥増しに増す)
という意義で、神さまの働きのすべてを総称する言葉です。

 「ありがとう」が、絶対から創造されて、無限に無限に輝いた大調和した、宇宙の根源の姿、天照大御神様の意味、「ございます」が「この世に姿を物質化して現してくださっている」という意味です。絶対から現れた無限に無限に輝いたものが、現実のこの世にまで物質化して現れ、完璧な表現をとり、また現れては中心へ、絶対へ戻って行っているという意味です。自然に循環しているという意味が含まれています。『ありがとうございます』は「天照大御神様が今ここにまします」と同義です。

 『神さま! ありがとうございます』と心に唱え続ければ、神さまのすべての働きを感受し、神さまと一体化するのです。唯一無二の、すべてのすべてなる、本物の神さまとの一体の自覚が、自然に与えられる、神秘不可思議な言葉です。

 「ありがとうございます」の神さまは、無限に無限に謙虚です。人の自由を決して決して縛ることはないのです。だからこそ、感謝に生きたい人、感謝に生きようとする人は、「ありがとうございます」の一言に絞り込んで、心に唱え続け、神さまを受け入れる必要があるのです。ほかにちょっとでも心を向けたら、そちらを優先しなさいと、「ありがとうございます」の神さまは引っ込んでしまうからです。

 『ありがとうございます』と心に唱えることは、
(1)神さまに心を向けているのです。
(2)自分のすべてを、神さまに捧げ尽くしているのです。
(3)謙虚な謙虚な心になっているのです。
(4)素直な素直な心になっているのです。
(5)報恩の心になっているのです。
(6)奉仕の心になっているのです。
(7)与え尽くす心になっているのです。
(8)神さまと交流しているのです。
(9)神さまと融合・一体化しているのです。
(10)神さまの御心、神さまの全てを受けているのです。

 宇宙絶対神は、『愛』の御心が自然に発露して、創造・統一・自由・限定という四つの働きを、渾然一つに融け合わせて、全大宇宙のすべてのすべてとなって、活現しているのです。『絶対』は、過去・現在・未来を通じて現れる、すべての表現の源泉です。絶対の中には『すべて』があるのです。すべての表現は、絶対より生まれ出てくるのです。すべての表現は、絶対の一部です。譬えれば、絶対とは海全体です。表現とは海の表面の波の変化です。絶対(海)が動くと、表現(波)が生まれるのです。

 すべての表現は『愛』より出発し、一瞬一瞬『愛』を表現し続けて、『愛』に帰るのです。『愛』とは『一体の自覚』です。宇宙のすべては、お互いに与え合い、包容し合い、生かし合い、助け合い、補い合って、一つの生命体として、渾然融和大調和しているのです。全体として見れば、一瞬一瞬が完成の連続です。部分部分として見れば、完成を目指して進化し続ける姿です。宇宙全体は、一つの大調和した美しい花園です。
 無限の種類の花の、無限の段階の成長の姿が、一つに渾然融和して、完璧な姿となって、移り変わっているのです。部分は全体との一体感・愛の故に、全体が必要としているどんな役割でも、喜んで演じることができるのです。部分は『愛』の故に、全体に奉仕するのです。全体の完成の為に、一瞬の休みも無く成長を続け、進化向上し続けるのは、全体のお役に立ちたいという『愛』の心からです。部分が自分の立場を捨てて、全体の調和の為に自らを投げ出し、自らの自由意志によって、統一の中心へ帰一してゆくのは、『愛』の心からです。全体の大調和の為に、自らの自由を制約し、限定するのは、『愛』の故なのです。

 宇宙絶対神の愛の御心は、創造・統一・自由・限定の四つの働きを駆使して、常に新たなる最高表現を生み出し続けているのです。創造の働きは、無活動・非創造・枯死の状態を、打破してゆくのです。そして無限の新生・無限の創造・無限の生命・無限の躍動を、いのちの輝きとして表現しているのです。統一の働きは、すべての部分を、最高に生かすのです。すべての部分を適材適所に配置して、全体を最高傑作に仕上げてゆくのです。一切の創造を、大調和の状態に配列するのです。自由の働きは、どんな役割も、命令されたり、強制されてするのでは無く、自らの自由意志で、喜び勇んで演じるのです。浅い小さな自由を、深い大きな自由に高めるのです。過去の因習・形式・伝統の縛りを無くしてゆくのです。限定の働きは、我が儘・身勝手・放縦を取り除くのです。創造・統一・自由・限定の四つの働きは、全体の調和・みんなの幸せを、実現し続ける為の『愛』の働きなのです。常に『愛』の心に立脚して、創造・統一・自由・限定の働きを、自由自在に駆使してゆくのが、本心の自分の生き方です。



ありがとうございますノートから 

 
チャンスは「今」

 自分には素質が無いから出来ないとためらう者、いろいろの理由をつけて今は出来ないと言い訳をするものは、永遠に悟ることは不可能です。今持っているすべての力を使って努力すれば、素質も能力も奥にある本心から引き出されて大きくなってくるのです。

 チャンスは「今」しか無いのです。「今」を逃せば、チャンスは永久に訪れては来ないのです。今、祈らなければ、必ず、祈りにくくなる、祈れなくなる、祈らなくなる、永久に祈りを忘れてしまうのです。

 業想念の心の奴隷状態の自分から、本心の心の大きく輝いた自分に戻り、七難八苦から永遠に開放されて、神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯の自分に成れるということは、未曾有のことです。この貴重なチャンスを生かせないようでは、すべては水泡に帰すのです。今一度真剣に、自分自身を見詰め直すことが大切です。

 貴重なチャンスを与えてもらっても、神さまからの命綱(祈り言葉・ありがとうございます)にしっかりと縋(すが)って、本心の自分に戻り切らなければ、その折角のチャンスを捨てたことになるのです。中途半端な生き方では、本心の自分に戻り切ることは不可能です。自我の心を死に切って、徹底して本心の自分を生きようとしなければ、正しい祈りの練習もできないのです。正しい祈りの練習を、真剣に・命懸けで・一心不乱に積み重ねなければ、正しい祈りのできる本心の自分に戻ることは不可能です。何事も真剣さが大事です。真剣さがあれば、神さまの大きな加護を受けて、短期間に自由自在な・無限の無限の幸せで一杯の本心の自分に戻してもらえるのです。



ありがとうございますノートから 

 
祈れる自分になるために

 どんな行もわき目も振らずに一心に取り組んでこそ遂行できるのです。祈りの行、感謝行も他人のことが気になるようではなかなか実行できるものではないのです。他人のことは気にかけず、ただひたすらに自分が実践してゆくことが大切です。他人が祈っているように見えても見えなくとも、そんなことは一切おかまいなく自分がただひたすらに祈ればよいのです。それが一緒に祈りの行を励んでいる仲間達の行を助ける一番の力になるのです。
 祈りを深める秘訣は、他人のことは一切気にかけないで、ただひたすらに自分が祈りに祈ることです。そしてその祈っている自分をも忘れて祈りに祈って祈りそのものに成り切ることです。

 真実の祈りを祈れる自分になる為には、真剣な・命懸けの『祈りの練習』が必要です。業想念の惰性に流され、運命の奴隷状態を甘受しているようでは、永遠に本心の自分には戻れないのです。常に自分の自由意思を、ハッキリとさせることが必要です。祈れる自分・祈る自分に成るのだという、真の目的をハッキリさせれば、後は自分のすべてを、それに集中するだけです。分散している力を、一点(一つの目的)に集中すれば、大きな成果が直ぐに得られるのです。一番大事な・必要なことに、自分のすべてを絞り込んでゆけば、切願は必ず成就するのです。本心の自分を輝かせるのだという、切願を起こし・保持し続ければ、救済の神々の大きな助けを受けて、不可能も可能に成るのです。すべては自分の自由意思によって、決定されます。自分が運命を支配しなければ、誰でも運命の奴隷に陥るのです。



ありがとうございますノートから 

 
祈りの神さまのメッセージ

 同じ「ありがとうございます」という祈り言葉を唱えていても、(1)祈り(2)祈りの練習(3)念力の三つの生き方に大別されるのです。

(1)祈りの生き方とは、自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、神さまの御心の中へ飛び込んで、「新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!」と感受し続けるものです。

(2)祈りの練習の生き方とは、自分の思い願いをすべて捨て切って、神さまに全託できるようになる為に、「この生命を神さまに捧げます。どうか神さまの御用にお使いください」と誓約して、過去に積み重ねた無限の思いを、神さまに肩がわりして消し去ってもらうものです。

(3)念力の生き方とは、自分の思い・願い・夢・希望を実現する為に、神さまを利用しようとするものです。思いの奴隷となって、浅い・小さな生き方に滞まり、真の祈り(神さまとの一体化)とは正反対になってしまうものです。

ありがとうございます



ありがとうございますノートから 

 
祈りの練習には感謝と報恩の2つの柱がある

 『祈りの練習』には、『祈り言葉』を一心に唱える感謝行と、神さまの為に全力で奉仕する報恩行の、二つの柱があるのです。どちらの行も祈りの上達の為には、必要不可欠の大事な要素です。救済の神々の大きな助けを受け、本心開発を速やかに促進する為には、次のような点に留意することが大切です。

(1) 神さまに心を向ける(神さまへ・神さまの為に)
(2) 真剣になる(一心に・全力で)
(3) 神さまの絶対の愛を信じ切る
(4) 本心の自分をしっかりと生きようとする
(5) 絶対他力の助けは積極的に受け・活用する
(6) 先達・同志の助け合いの輪の中に自分を置く
(7) 常に天の自分・救う側に自分を置く
(8) すべてを光一元に仰ぎ見る、最高のプラス思考に徹する

 先ず祈れる自分・祈る自分に成ることです。そして祈り続けることによって、神さまの御心(全徳の無限の無限の輝き)を、この世に顕現し続けることです。常に自由自在な本心の立場に立って、新たなる神さまの最高表現を感受して、この世に実現してゆくことが、人の天命・生き甲斐・喜び・幸せなのです。

 祈れる自分・祈る自分に成る為には、外界に囚われない・惑わされない自分に成ることが必要です。『外界は自分の心の投影である』ということを、しっかりと認識することが大切です。神さまの御心(無限の無限のプラス)を、どれだけ心に受け入れて来たか、その結果が今の自分の心の状態・外界の姿と現れているのです。自分の心のマイナス・外界のマイナスの姿は、自分が祈りを忘れた結果です。

 甘えの心を捨てて、祈れる強い自分に成る為に、真剣に・命懸けで、祈りの練習に取り組まなければならないのです。大願を立てて、いのちを捧げて、真心を込めて、真剣に取り組めば、必ず大きな成果が得られるのです。他のすべてを捨て切って、業想念の心・五欲の心・煩悩の心・自我の心を相手にしないで、祈りの練習だけに精神集中すれば、本心の心が輝き出て来て、誰でも短期間に祈れる自分・祈る自分に成るのです。

 お祈りの練習は、真理の言葉のエキスとも言える祈りの言葉を、繰り返し繰り返し味わうことです。自分の心境に比例して、その味わい方も深くなります。自分なりにしっかりと練習を積み重ねた上で、自分よりも心境の高い人と一緒に、お祈りの練習をすると、その上達のコツ(ヒント)が掴み易くなって、早く進歩するものです。どの分野でも同じように、自分より上級の者と接することによって、自分に必要なプラスが啓発されて、心の内奥より引き出され、速く進歩向上するのです。独りよがりな我流の生き方に陥っては、進歩向上も遅くなります。求めるばかりの利己的な心に陥っては、折角の助けも受け損なうものです。与える心を起こして、自分より下級のものを、先ず助けることによって、自分も上級の者から助けてもらえるのです。天の自分として深く深く祈り、地の自分として謙虚に謙虚に受けて、無限とも言える各階層の心の扉を、その両方から開いてゆくことで、天の自分と地の自分が一つに繋がってくるのです。感謝のお祈りは、遠くに離してしまった天の自分と地の自分とを、今此処に、新たに一つに繋ぐ為のものです。



ありがとうございますノートから 

 
感謝と奉仕は本物へのパスポート

 感謝と奉仕は、本物へのパスポートです。神さまを・神さまの働きを、しっかりと感受するのが感謝です。自分のすべてを捧げ尽くして、神さまの御用に使って頂くのが奉仕です。神さまへの感謝と奉仕によって、神さまと自分との間に、心の交流が起こるのです。自分のマイナスの心(古い心)が、神さまの中で消し去られ、神さまのプラスの御心が、自分の中に流れ入って来るのです。

 本物とは、神さまのことです。本物に成るとは、神さまと一体化することです。神さまとの一体化にも無限の段階があるのです。より深く・より大きく、神さまと一体化することによって、より本物に近づいてゆくのです。神さまとの一体化には、二通りあります。一つは、自分という器の中に、神さまを受入れて、神さまと一体化する方法です。二つは、自分という器を、神さまに捧げ尽くして、徹底して自分を消し切って、神さまと一体化する方法です。

 自分という器がある間は、その器をどんどん大きくして、神さまを受け入れてゆく必要があるのです。しかしその器は、どこまで行っても、無限には成り得ないので、神さまとの一体化は、無限分の一以下の一体化です。
 自分のすべてを捧げ尽くして、自分の器を消し切ってもらうと、その時に感受した神さまとの一体化になるのです。一瞬一瞬新たに新たに、感受しただけの神さまとの一体化となるのです。無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!と、どこまでもどこまでも、大きく深く感受して、神さまとの一体化を、無限に大きく深く感受して、神さまとの一体化を、無限に大きく・無限に深くしてゆけるのです。この方法が、より速やかに本物に成る道です。

 謙虚な心が何よりも大事なのです。無限に謙虚に成れば、自分のという器をも消し去ってもらえるのです。神さまが何を願い、何を必要としているかを、しっかりと汲み取り、その為の奉仕の量を多くしてゆくことが大事です。常に創意工夫して、仕事の能率化・効率化・迅速化を心掛ける必要があるのです。



ありがとうございますノートから

 
本心を呼び醒ます「ありがとうございます」

 宇宙のすべてのすべては神の愛の現れ、神の愛そのものであるという、絶対の真理を理解し把握するには、本心の自覚を深めて、宇宙のすべてをありのままに受け入れる青空のような本心の心に成り切ることが重要です。

 本心の自覚は、真理の言葉(祈り言葉・ありがとうございます)によって、呼び醒まされ、引き出され、深められてゆくものです。そして本心の自覚の深まりに比例して、感じ取れる真実の幸福は、無限に大きく深いものに変化してゆくのです。

 真理の言葉を読んだり、聞いたりすることは、神さまの叡智を呼び出し、本心の自分を輝かすことになるのです。お祈りを忘れたり、お祈りのし難い状態の時は、真理の言葉を読んだり、聞いたりすることによって、本心の自分を呼び出すことができます。本心の自分を呼び出せば、お祈りがし易くなるのです。真理の言葉・正しい知識は、神さまを呼び出し、知る為の、大事な道具です。業想念の言葉・間違った知識は、心を曇らせるだけの不用品です。真理の言葉・正しい知識は、心に整理し、集大成して、いつでも使えるようにしておく必要があるのです。業想念の言葉・間違った知識は、捨てて捨てて捨て切って、心に残さないようにすることです。真理の言葉を忘れ、捨てるのが損なら、業想念の言葉を心に溜め込むのは、大損です。本心の自分を忘れ、本心の自分から遠ざかることになるからです。

 真理の言葉(プラスの言葉・明るい言葉・善い言葉・美しい言葉・賛嘆の言葉・感謝の言葉・喜びの言葉・等々)は使えば使うほど、本心の自覚が深まるのです。虚偽の言葉(マイナスの言葉・暗い言葉・悪い言葉・汚い言葉・貶す言葉・不平不満不足の言葉・悲しみの言葉・等々)は使えば使うほど、本心の自覚が失われるのです。どのような人生を歩むにしても、どんなことをしてゆくにしても、何を始めるにも、先ず一番にしなければならないことは、業想念の心を捨てて、本心の自分に戻ることです。本心の自分に戻ってから、何でもしてゆけば良いのです。本心の自分は常に、完全燃焼した生き方ができるのです。困難に戯れ、高い目標に挑戦し、内在の無限力を発揮することに、大きな大きな喜びを見出してゆけるのです。

 本心の自分(天の自分・神なる自分)は、真理の言葉(本当のプラスの言葉)を駆使することによって、無限力を発揮できるのです。本当の真理の言葉は、神さまの御心の中に在るのです。現実の状態を表現して言葉にすれば、業想念の奴隷に・運命の奴隷に陥るのです。真理の言葉を積極的に使うことによって、業想念の言葉を使わなくて済むのです。心と現実の七難八苦を消し去り、常楽我浄の神さまの御心を現す為には、常に今を新たに、真理の言葉のみを、しっかりと駆使することが大事です。

 神さまの最高表現・新たなる全徳の無限の無限の輝きを、具体的な言葉として駆使すれば、心を速やかに最高のプラスの状態にすることができるのです。『ありがとうございます』『天照大御神 今 ここに在します』『新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』『新たなる無限の無限の幸せが一杯! 新たなる無限の無限の喜びが一杯! 新たなる無限の無限の安らぎが一杯! 新たなる無限の無限の平和が一杯! 新たなる無限の無限の調和が一杯! 新たなる無限の無限の恵みが一杯! 新たなる無限の無限の健康が一杯! ・・・・・・・・』

 真理の言葉だけを使おうと、前向きに努力することによって、真理の言葉が使い易くなってくるのです。真理の言葉を常に心に唱えながら、真理の言葉を常に口ずさみながら、本心の自分の立場から、何でもしてゆけば、いつも楽しく・喜んで、生き甲斐のある・幸せ一杯の人生を歩むことができるのです。



ありがとうございますノートから 

 
真理を学ぶ

 本当に正しい生き方をする為には、真理を学ぶことが必要です。神さまの御心とは何か? 宇宙を貫く原理・法則とは何か? 本当の自分とは何か? 人生の正しい目的とは何か? 数多くの問題に対して、自分自身が真実の答えを見出してゆかねばならないのです。無知のままでは、間違った生き方を積み重ね、運命の奴隷に陥るのです。本当に真剣に探し求め続けなければ、それらの正しい答えを発見することは不可能です。

 自分にとって本当に必要なものとは何かを、はっきりさせておくことも大事です。それによって、目の前に与えられた時に、的確に受け取ることができるのです。折角与えられているのに、見過ごし・見逃しているようでは、他からの多くの愛念を無視し・拒絶したことにもなり、何度も何度も無視し・拒絶していては、必要な助けも来なくなってしまいます。真理を学ぶにも、自分のいのちと引替えても悔いは無いという程の、真剣な必要性が有れば、必ず与えられ、受け取ることができるものです。

 『読書百遍意自ずから通ず』です。何事も熟読玩味してこそ、その真意を知ることができるのです。真理の言葉というものは、自分の心境の変化に伴って、受け止め方が変わって来るのです。業想念の心に陥ったら、全く真理の言葉は理解できなくなるものです。本心の心に戻ってからも、その自覚の深まりに比例して、真理の言葉の理解は進むものなのです。真理の言葉は、同じ心境に止まっている時でも、繰り返し繰り返し百編以上は味わうべきものです。心境が少しでも向上変化したならば、今一度初心に返って、繰り返し繰り返し百編以上は味わうのです。真理の言葉には、無限の無限の真価値が存在しています。汲めども汲めども尽きることは無いのです。

 無限の無限の幸せが、既に与えられている事実に気付くことが大切です。そのために必要なのは、第一に、繰り返し繰り返し真理の書を読み、真理の話を聞き、真理の言葉を心にたたき込むことです。第二に『祈り言葉』を一心不乱に、唱え続けることです。第三に、みんなを幸せにするための愛他行を、身近から、小さいことから実践し続けることです。この三つを実行することで、本心の自覚は深められ真実の幸せに気付くのです。

 真理の全てを、理解し・把握することは不可能です。自分の心境の変化を待って、新たに新たに、真理の言葉から秘められた真価値を、見出してゆかなければならないのです。謙虚になることを忘れ、高慢な心に陥ったら、進歩は止まり、逆に退歩してゆくのです。同じ真理の説法を聴いても、自分の心境に合ったものだけしか、受け取ることができないのです。自分の心境が進歩向上すれば、同じ真理の説法を聴いても、又新しい価値を見出すことができるものです。真実の導師は、相手の心境に合わせた、自在の説法ができるのです。自分一人で我流の勉強をしているよりも、自分の心境に合わせた、巧みな真理の言葉の解説を聴く方が、真理の理解は速やかに進むものです。
 


ありがとうございますノートから

 
神我一体への道−感謝と報恩の誠を尽くす

 神さまと自分との間の、循環・交流を促進してゆくことが、神我一体への道です。神さまの絶対の愛の働きは、一切の報いを求めないで、自分のすべてを与え尽くす、順流の流れです。だから神さまと交流する為には、自分も順流の流れを起こす必要があるのです。ただ感謝一筋に、自分のすべてを捧げ尽くす、絶対奉仕の生き方が、順流の流れを起こすのです。神さまと自分とが、相互に与え尽くし合うことによって、循環・交流が起こり、融合・一体化してゆくのです。本心の心の自分は、『感謝(すべてを神さまから受ける)と報恩(すべてを神さまに捧げる)の誠を尽くす』ことによって、神さまと密接に交流し、神さまと一体化し、その輝きを増してゆくのです。

 神さまは常に、人々の願い・求めに先立って、新たなる全徳の無限の無限の輝きと現れ、大光明を放射し続けているのです。その神さまの大光明の放射を、真理の言葉を駆使して、新たなる今・ここに感受することが、感謝の誠を尽くすことです。過去のすべてを心から離し、謙虚な心・マイナスの極に立つ心になって、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、光一元に仰ぎ見て、実感してゆくのです。『新たなる全徳の無限の無限の幸せが一杯!』(全大宇宙のすべてのすべてに、新たなる無限の無限の幸せが降り注ぎ・満ち渡り・満ち溢れている!)という光景が心に浮かび上がり、実感できるようになるまで、無心に祈り言葉を唱え続けるのです。祈り言葉を無心に・一心不乱に・真剣に唱え続ければ、心の向きを神さまに定め(心の波長を合わせ)、心に神さまを招き入れることができるのです。神さまが与え続けてくださっている、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、どのように受け入れるかは各自の自由です。プラスに受ける人、マイナスに受ける人、大きく受け入れる人、小さく受け入れる人、その受け方は千差万別です。受け方の違いによって、各自の感受している世界が異なっているのです。

 神さまから受けたすべてを、神さまの御心を実現する為に、与え尽くしてゆくことが、神さまとの交流する為の秘訣です。『ありがとうございます』という感謝の心は、神さまの順流の流れに、自分のすべてを任せ切る、全託の心です。謙虚な心で恩返しに生きられる、最も自然な心なのです。
 『ありがとうございます』と唱えれば、天照大御神の新たなる全徳の無限の無限の輝きが、必ず大光明燦然と降り注ぐのです。その光の流れに自分を任せれば、過去世に積み重ねた無限の業想念も、洗い清められ・消し去られて、感謝の心・本心の自分が輝き出てくるのです。

 感謝の心が深くなれば、必然的に神さまへの奉仕(恩返し)の為に、自分のすべてを捧げ尽くしたくなるのです。本心の心が大きく輝いていて、報恩の心が自然に湧き上がって来るのです。億分の一の恩返しもできないけれども、自分のすべてを捧げ尽くして、大恩に報いようとするのです。神さまの御心を汲み取って、謙虚に・素直に、全力を尽くして、奉仕しようとするのです。恩とは、すべての因(もと)になる心、神さまの愛の御心を意味しているのです。報いるとは、与えられた幸せを与え返すことです。報恩の誠を尽くすということは、神さまの喜ぶように、みんなの幸せの為に、自己のすべてを捧げ尽くして、無私の心・空っぽの心・神さまの心に戻るということです。愛するものと愛されるもの、与えるものと与えられるものが、全く一つに同化してこそ、呼吸のように自然な循環となるのです。神さまと人とは、本来一体です。無限の無限の愛は自然に循環しているのです。感謝報恩の誠を尽くすとは、元からの自然な無限の無限の幸せで一杯の自分に戻ることなのです。
 感謝の心が深くなれば、神さまの御心を正しく感受する為に、一心不乱の『祈りの行』が始まるのです。神さまの御心のままに、神さまの御心に適った、正しい生き方になるように、真剣な『祈りの行』が最優先されるようになるのです。先ず祈りに祈って、祈り続けながら、神さまの御心を正しく感受して、最も必要なことから順番に、全力を尽くして奉仕するようになるのです。神さまへの絶対奉仕に生きる自分が、神我一体と成り、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯に成るのです。

 全託・空・無為の極致に、御稜威(みいづ)・絶対神の御威光を感受することができるのです。全託(自分のすべてを捧げ尽くして、感謝一筋に生きる)・空(すべての根源をしっかりと見つめて生きる)・無為(計らい心を捨てて、神さまの御心のままに生きる)の生き方の極致に、天照大御神(新たなる全徳の無限の無限の輝き)は現前するのです。自我の心を生きようとしている時は、全託・空・無為の生き方は絶対にできないのです。だからある程度は自我の心を生きてみて、行き詰まり・頭を打ち・苦しんで、心から反省するということも必要なのです。そうすればどんなに努力しようとしても、努力すらできないという、本当の無力感を味わうことによって、謙虚に謙虚に成れるのです。

 真の全託の生き方とは、真の神へ自分のすべてを委ね切ることです。『私のすべてを神さまに捧げます。どうか神さまの御用にお使い下さい』と、自我の生き方を放棄することです。そうすれば本心の自分が出て来て、無限力を発揮し、獅子奮迅の働きができるのです。「棚からぼた餅」式の怠惰な甘い生き方とは、正反対です。神さまの御用に使っていただいて、神の国建設の為に、全力を尽くすことです。神さまのお役に立って、神さまに喜んでいただくことなのです。

 真の空の生き方とは、真の神を中心に置いて、真の神の働きだけを見詰めることです。すべての根源に心を向けて、枝葉に囚われない生き方です。真の神とその働きの全貌を見て、全体を達観し、全相を把握し、すべてを活かすことです。すべての部分を、適材適所に・秩序整然と活用して、神の国の秩序・最高理想の相を、現実に現してゆくことです。

 真の無為の生き方とは、真の神の働きだけを、しっかりと捉えることです。一瞬一瞬新たに新たに、真の神の働きは、千変万化自由自在に現れて来るのです。その働きをしっかりと捉える為には、自我の計らい心は邪魔です。自我の計らい心を、捨てて・捨てて・捨て切って、微塵も残さない生き方、真の神の働きを、絶対に邪魔しない生き方なのです。

 真の神が、真の神の働きが、この世に天下って来たら、地上天国・完全平和が実現するのです。地球人類は長歳月、真の神を忘れ・無視し・拒絶し続けて来たのです。その為に地球全体が滅亡寸前の瀕死の重症なのです。今こそ謙虚な謙虚な心になって、真の神の助けを受け入れなければ、救済は不可能なのです。真の神の御稜威によらなければ、地球の滅亡を防ぐことはできないのです。絶対統一・絶対他力・絶対救護の真の神(真の御親)に、真剣に・命懸けで縋(すが)らなければならないのです。

 天地の初発は、常に『今』です。宇宙創造の始源は、常に『今』なのです。過去・現在・未来のどの位置にあっても、天地の初発は、常に『今』です。時間・空間を超越している絶対神が『今・ここに』出現する、その一瞬一瞬が宇宙創造の始源であり、宇宙創造の完成なのです。唯一無二の絶対神が、全大宇宙として動き出で、鳴り出で、姿を現すのは、すべての時間・すべての空間に、同時・一切所(いっさいしょ)です。人間は自己の信念に従って、それぞれに時間・空間の座標軸を定め、『今・ここに』天地の初発を見、天地の完成を見るのです。全大宇宙のすべては、今の一瞬一瞬に、新たに誕生し続けているのです。しかし、その『天地一新! 万物新生!』の真創造のすがたが見えないのは、心の目・霊眼が根本の無明によって覆われているからです。
 ここに『禊祓(みそぎはらい)』、即ち業想念を捨て去り、本心の自覚を深めるという、心の潔齋(けっさい)が先ず必要となるのです。一切の業想念は、執着から生じます。全大宇宙のすべては、絶対神の現れであり、絶対神の所有物です。だから自分の物というのは、何一つとして存在しないのです。本来、無一物、無所有、無所得であり、私有できるものは何一つとして無いのです。

 人は宇宙絶対神の御心に素直に従ってこそ、正しい生き方をしているのです。神さまの為に生きようとし、神さまの為に生きる時、人の生き方は正しくなって来るのです。いつまでも利己的な生き方をしていては、取り返しの付かない事態に陥るのです。

 絶対神の御心を生きる為には、先ず絶対神の御心を、正しく把握しなければならないのです。大恩のある絶対神の御心を理解しようと、真剣に努力すれば必ず判るのです。絶対神への感謝報恩行を真剣に実践すれば、必ず判るのです。判らないから、判ろうと努力しなければならないのです。判らないと判れば、何が何でも判ろうと、真剣に努力さえすれば、判らせて頂けるのです。最初から判ろうとしないのは、論外です。そんな恩を仇で返すような者は、早く地獄に落ちて反省すべきなのです。



ありがとうございますノートから

 
神さまからみた正しい生き方・祈りとは

 正しい生き方・正しい信仰の仕方・正しい祈り方が、本心開発には、絶対に必要です。
 神さまの御心を現す為に生きるのが、本心の生き方です。神さまが自分に対して、今何を成す事を願っているのかを、的確に汲み取ることが大切です。何事を為す場合でも、神さまの働きに同化する為の自己訓練として、真剣に取り組まなければならないのです。いつ・どこで・何を・何の為に・どのように成すべきかを、その為の必要かつ十分な事柄を的確に把握して、実行に移さなければならないのです。もし神さまが成されるとすれば、どのように成されるか、その神業に一歩でも近づけるように自己訓練をしてゆくのです。何事を為す場合でも、何の為にするのか、何故そのようにするのか、その必要性をしっかりと理解し・認識し・把握してこそ、正しい自己訓練になり、スピードアップも図れるのです。

 正しい生き方とは、『与える』生き方です。間違った生き方とは、「求める」生き方です。『与える』生き方は、心に徳(貯金・プラス)を積み重ね、感謝・幸せ・喜び・安らぎで一杯になるのです。「求める」生き方は、心に業想念(借金・マイナス)を積み重ねて、不平不満不足の心に陥り、七難八苦で一杯になるのです。

 正しい信仰とは、神さまと自分との関係を、常に一対一の状態に置くことです。神さま以外の何物をも、見ざる・聞かざる・言わざるの行に徹することです。自分の他には神さましか存在しないのである、という心の状態になることが、正しい信仰の根本です。その為には神さまのことだけを、思い続け・思い詰めることが必要です。心を尽くし・思いを尽くし・精神を尽くし・力を尽くして、内なる神さまを愛するのです。即ち先ず自分の心の奥に神さまを見出すのです。そして内なる神さまを褒め称え、謙虚な心で感謝し、いつも無限の無限の幸せで一杯ですと喜ぶのです。神さま以外のことに心を奪われ、神さまのことを忘れているようでは、未だ一歩も、正しい信仰に足を踏み入れていないのです。人は二人の主に使えることはできないのです。神さまが与えようとしている、全徳の無限の無限の輝きを感受する為には、自分の生命をも神さまに捧げ尽くそうとする、真摯な心の姿勢が必要なのです。 

 正しい祈りとは、本心の心でする祈りです。業想念の心(自我の心・五欲の心・煩悩の心)で間違った祈りを、どれほど熱心に何万年続けようとも、業想念を積み重ねるだけで、何の役にも立たないのです。逆に自我が強くなって、マイナスになるのです。正しい祈りは、先ず業想念の心(自我の心・五欲の心・煩悩の心)を消し去る為に、正しい祈り言葉を唱えることから出発するのです。祈り言葉を唱えることによって、守護の神霊の加護を受け、業想念の心を消し去っていただくのです。業想念の心を微塵も残してはならないのです。そして本心の心の自分になって、自分の心を神さまの御心に合わせ切ってゆくのです。本心の自分の心を、神さまの御心に合わせてゆくのが、正しい祈りなのです。神さまの御心を顕現してゆく為に、自分のすべてを捧げ尽くして、謙虚に・素直に、神さまの御心に帰一・随順・奉仕してゆくのが、正しい祈りの根本です。業想念の心を消し去る為に、祈り言葉を唱えるのは、正しい祈りに入る為の準備段階です。業想念の心を消し去り・死にきった時から、正しい祈りの第一歩が始まるのです。

 正しい祈りは、本心の心でする祈りです。
 正しい祈りは、謙虚な心でする祈りです。
 正しい祈りは、素直な心でする祈りです。
 正しい祈りは、感謝の心でする祈りです。
 正しい祈りは、明るい心でする祈りです。
 正しい祈りは、喜びの心でする祈りです。
 正しい祈りは、愛(一体感)の心でする祈りです。
 正しい祈りは、幸せな心でする祈りです。
 正しい祈りは、安らぎの心でする祈りです。
 正しい祈りは、光の心でする祈りです。
 祈りを正しく理解し、祈りを正しく把握し、祈りを正しく実行することが大切です。正しい祈りは、本心の自分を最高に輝かせる為のものです。正しい祈りは、神さまと本心の自分との交流です。正しい祈りは、神我一体感を無限に無限に深める為のものです。正しい祈りは、本心の自分にとっては、すべてのすべてです。正しい祈りは、無限の無限の絶対価値有るものです。正しい祈りを祈れる自分になれば、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。だから正しい祈りを祈れる自分になることが、唯一無二の・最高・最大の目的・目標・課題・願いでなければならないのです。

 日常生活においても、常に真剣に、神さまへの絶対奉仕に生きる必要があるのは、祈り易くする為の助けになるからです。常日頃から、『与え尽くす』心になっていたら、神さまの御心と波長が合って、正しい祈りができるのです。

 祈りの修行のチャンスを逃すのは、無限の無限の価値あるものを捨てることです。祈りの真価値を少しでも感じられる者は、すべてを捨ててでも、祈りの修行に没頭するものです。三界のすべてを捨ててでも、出家するのは、この絶対価値有る祈りを、自分のものとして体感体得する為なのです。

 神の御心に波長を合わせ、神の御心と一体化し、神の御心を行じ、神の御心を現す事がお祈りです。逆に言えば、神の御心に波長を合わせなかったら、神の御心と一体化しなかったら、神の御心を行じなかったら、神の御心を現さなかったら、未だお祈りにはなっていないのです。業想念を決して決して自分であると思い違えてはならないのです。

 業想念はあの手この手とありとあらゆる策を練って、誘惑し、脅迫し、妨害してくるのです。業想念を否定し、無視し、決して相手にしてはならないのです。相手にすれば業想念の思う壺にはまってしまうことになるのです。次に心すべきことは、頭上を覆う業想念の雲を今以上に厚くしないことです。そのためには地上の一切のものに執着しないことです。更には業想念の付着したものを自分のものにしてつかまないことです。とりわけ不労所得には想像を絶する多くの業想念が付着してきて、妨げられるだけでなく、いずれは業想念の渦巻きに巻き込まれて四苦八苦することになるのですから、決して安易に不労所得を私物化してはならないのです。業想念に負けることのない光の強い自分になるまでは、できるだけ業想念の厚い場所に物に人に近寄らないのが賢明です。何よりもまず真実のお祈りが出来る自分になることが大切なのです。業想念の奴隷にならないためには、常に本心の自分を光り輝かしていなければならないのです。心から一切の業想念を捨て去り、神の御心のみを受入れてゆくことです。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・



ありがとうございますノートから

 
本心の自分を知る

 『受けの達人』が本当の自分です。『神さまのすべてを受ける』のが受けの達人です。神さまの絶対・創造・統一・自在・限定の五つの働きのすべてを受けるのが、神さまのすべてを受けることです。神さまは唯一無二の実在です。神さまの他には、何ものも存在しないのです。神独在です。神は絶対です。神さまの絶対の働きは、無限に無限に凄いものです。筆舌を遙かに超えたものです。無限の無限の直観力・洞察力・推理力・達観力を駆使しても、絶対の働きの凄さに気付くだけです。絶対は海全体に例えることができます。相対・表現は海の表面の波の変化です。絶対は海(生み)です。絶対から生み出されるのが、海の表面の波の変化、創造・統一・自在・限定の働きです。絶対から相対が生まれ、表現が生まれるのです。絶対の中に全徳(すべての働き)が在るのです。神さまの全徳が、相対の両極に振り分けられ、それらを円融無碍自在に組み合わせる働きが、創造の働きです。神さまは絶対者であると同時に、創造主なのです。相対に分かれたすべての要素を、左旋回・右旋回の螺旋状の働きとして、無限に伸展させて、すべてを尽くした組み合わせを、一瞬一瞬新たにするのが、創造の働きです。全大宇宙のすべてのすべてを、すべての時間・すべての空間を生み出す働きが、創造の働きです。同じものは何一つとして無く、同じことは二度と繰り返さない、完璧な表現が、神さまの創造です。神さまの創造は、無限の無限の創造です。永遠無窮に続く不断の創造です。すべてのすべてを尽くした神さまの創造は、それらを光一元に(他の要素も一元に)、大調和に配列して、一大統一してこそ、その全体像は最高に輝くのです。創造されたすべてのすべてを、最高の完璧な状態に配列・配置して、その全体像を最高に輝かせる働きが、統一の働きです。神さまは絶対者・創造主であると同時に、統一者なのです。全体像を構成する各部分の表現は、神通自在・神変自在な働きの精華です。また各部分は自らの自由意志で、喜んで統一の働きに参画して、全体像を最高の完璧なものにしているのです。そこには自由自在ないのちの躍動・無限の無限の輝きがあるのです。神さまはすべてのすべてと現れて、各部分に自由自在に働いているのです。各部分の自由自在な働きは、神さまの自在の働きなのです。最終的なすべての表現は。自分のすべてを捧げ尽くして奉仕する、最高の愛の結晶です。自らの自由自在な動きを完全に殺して、無限の縛りの中に入って静止するのは、愛の心による自由の限定の働きです。すべての表現は、神さまの愛の心の結晶、自由の限定の結果です。『ありがとうございます』(宇宙絶対統一神・天照大御神 今ここに 在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)と感謝するのは、神さまの五つの働きのすべてを、しっかりと受ける為です。受けの達人・本当の自分に戻る為です。

 道具を自在に使いこなせてこそ、本当の仕事ができるのです。本心の自分が、自己表現の道具である、肉体と魂を自在に使いこなせてこそ、神さまの御心をこの世に現すという、本来の使命を全うすることができるのです。肉体を自分であると思えば、肉体の欲望に負けるのは当然です。魂を自分であると思えば、過去世から積み重ねた業想念の影響を受けるのは当然です。何よりも先ず、本心の自分の自覚を深めてゆくことが重要です。本心の自分としての自覚の欠乏が、道具(肉体や魂)の奴隷状態に陥る根本原因です。本心の自分の自覚を深めてゆく為の一番の方法は、常に常に、本当の自分・本心の自分は、神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯なのだと祈り続け、大肯定してゆくことです。
 どのような表現をする場合でも、心の中に無いものを表現することは不可能です。神さまの御心・全徳の無限の無限の輝きを、この世に表現する為には、先ず自分の心に神さまの御心を受け入れる必要があるのです。そして肉体と魂を道具として使いこなし、神さまの御心をこの世へ実現してゆくのです。本心の自分の立場に立った時に、はじめて、肉体と魂を道具として、神さまの御心をこの世に実現してゆけるのです。本心の自分の立場に立つということは、一瞬一瞬新たに新たに、どこまでも謙虚な・素直な・明るい・おおらかな・喜び勇む心になって、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、具体的にしっかりと感受してゆくことです。

 本心とは、太陽のように明るく朗らかで、平等にすべてを愛し、夢と希望と幸せを与える心です。本心とは、水のように自らを相手に合わせて自由自在に変化させて、すべてに生命と潤いを与える心です。本心とは、空気のように自らの存在を主張することなく、謙虚にすべてを生かす心です。本心とは、大地のように踏まれても踏まれても謙虚に下座につき、すべてを支えて奉仕する心です。本心とは、海のように清濁合わせ呑み、すべてを浄化するおおらかな心です。

 本心とは、常に直観的に今の一瞬に、すべての存在に 愛を・美を・善を・光を・知恵を・生命を・素晴らしさを一元的に感じ取る感謝一筋の心です。本心の心は、常に常に、五感六感を超えて、神の愛を直感するのです。五感六感で感じ取れる現象界の移り変わるいかなる姿にも、決してとらわれることなく、いついかなる立場に立っても、常に今・ここに 神の愛を感受するのです。たとえ地獄絵図が眼前に現れても、そのすべてを神の無限に深い愛の現れであると、ただただ感謝一筋に受け入れることのできる心なのです。
 本心の心は、いついかなるときも、すべての責任は自分にあると知る心です。過去の長年月の間に、本心を忘れ、本心を輝かすことを怠ってきたその付けが無限の業を積み重ねる結果となったのだとまず認識するのです。そしてその業を一身に背負うことは不可能であるから、愛の天使たちが分担して振り替えて背負ってくれている姿が地獄絵図と現れているのです。「ああ!私の積み重ねた無限の業苦の重荷を少しでも軽くしてあげようと、みんなが分担して背負ってくださっている!なんと有り難いことだろう!」と苦労を共にしてあげようという神の愛の働きの姿に、喜びの涙を流して感謝し続けることのできるのが本心の自分です。本心を自覚すれば、無限の幸せは既に与えられ済みであることに気づくのです。

 本当の自分の心は、本心の心・感謝の心なのです。自我の思い・考え・願いは、業想念の心です。五欲(財欲・名誉欲・食欲・色欲・睡眠欲)の心は、業想念の心です。七難八苦の心は、業想念の心です。煩悩の心は、業想念の心です。業想念の心は、本当の自分の心では無いのです。光を灯せば、闇は消えるのです。本心を輝かせば、業想念は消えるのです。『ありがとうございます』と唱えれば、本心が輝き出て来るのです。『ありがとうございます』と唱えれば、心に光が差し込んで来るのです。『ありがとうございます』と唱えれば、業想念は消えるのです。心の中の業想念が消え去れば、青空に太陽の輝くように、本心の自分(湧き上がる感謝の心)が大きく輝き出て来るのです。

 『天(守護の神霊)は自ら助くる者を助く』というのは、自分自身が真剣に努力し続けてこそ、その願いが天に通じて、守護の神霊の御心を動かし、大きく助けていただけるようになるということです。自分の力だけでは、マイナスの全てを消し去ることは、不可能です。守護の神霊の助けを大きく受ける以外に救われる道は無いのです。

 本心開発を願う者は、決して惰性に流されてはいけないのです。惰性とは、過去に積み重ねた業想念の、習慣性・傾向・習性・癖・業力です。一瞬一瞬、本心の自分をしっかりと生きようとしなければ、一寸の油断で、直ぐに惰性に流され、業想念の奴隷に陥るものです。惰性に流され、業想念の奴隷に陥れば、自分の心は必ずマイナス(七難八苦)の状態になってゆくのです。七難八苦というのは、本心の自分を生きるのを忘れた時に、闇のように忍び寄って来るのです。マイナス(七難八苦)の状態は、本心の自分をしっかりと生きなさい、という警鐘です。

 本心の心は、愛の心・感謝の心・一体感の心です。本心の心は常に、本源(神)から新生してくる心です。だから『すべては神さま』『すべては神さまの現れ』『すべては神さまと一体』ということをよく知っているのです。本心の心の立場に立てば、『みんな天照大御神! みんな新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!』と拝めるのです。神さまを一本の大樹に例えると、このことが良く判るのです。根幹から全体を眺めると、すべては一つに繋がっていると見えるのです。末端の枝葉だけを眺めると、すべてはバラバラに離れているように見えるのです。表面の姿だけを眺めていては、すべてが繋がりの無い別個のものに見えるのは当然です。この世は表面の枝葉に相当する世界です。この世だけを見ていると、誰でも間違った一面観に陥るものです。

 本心の心は、全体を達観する心です。全体を知る心は、全体と一体の心です。本心の心は、全体の心です。本心の心は、『すべては自分』『自分はすべて』と無理なく自然に思えるのです。表面の小さな部分だけを掴んでいるから、小さな自分になるのです。大きく全体を掴めば、大きな自分になるのです。本当の自分は、神さまです。本当の自分は、宇宙全体です。本当の自分は、すべてのすべてです。みんな自分なのです。

 本心の自分を自覚し、その自覚を深める為には、正しい祈りを、祈りに祈らなければならないのです。一瞬一瞬の真剣な祈りを忘れた時に、惰性の祈りに陥り、本心の自分の自覚が失われてゆくのです。本心の自覚を保持する為の祈りは、常に一瞬一瞬の、真剣な祈りなのです。

 本心の心は、祈り心です。本心の心は、常に常に、祈っているのです。本心の心は、新たに新たに、祈り続けているのです。本心の心は、祈ることによって、神さまの全徳の無限の無限の輝きを表現してゆくのです。祈りによって、神さまの御心を顕現するのです。祈りこそが、神さまの御心をこの世へ現す、絶大なる力なのです。本心の自分は、祈りに始まって祈りに終わるのです。祈り一筋に生きるのみです。祈るだけです。ただただ祈るだけなのです。祈りによって心を調律し、その心を投影して、現実世界に神さまの御心を現すのです。現実世界は、心の通りに・運命のままに、自然に移り変わるのみです。



ありがとうございますノートから

 
本心の自分を生きる

 本当の自分は、神さまなのです。魂や肉体の自分を、本当の自分と錯覚するところに、根本の間違いが有るのです。魂の自分を生きるだけでは、過去世の重荷を背負い、七難八苦に見舞われるのです。肉体の自分を生きるだけでは、五欲の満足を優先させて、大きく業想念(マイナス)を積み重ねるだけです。
 本物を封印するのは、偽物を掴むからです。偽物を自分であると掴むことによって、本物を奥に封印してしまったのです。過去世から積み重ねて来た、無限の業想念(マイナスの言葉・思い)が、神さまである本当の自分を、しっかりと封印しているのです。この封印を解く為には、過去世に積み重ねた無限の業想念を、消し去ることが必要です。

 七難八苦(業想念)を背負っているということは、恥ずかしいことです。何故ならそれは、神さまへの感謝と恩返しを、忘れ・怠った結果だからです。また何時までも七難八苦(業想念)を背負っていたら、それは神さまへの感謝と恩返しに、いのちがけで生きようとしていない、ということを証明しているのです。いのちがけで感謝を深めたら、無限の無限の浄めの光を浴びて、浮かび出た業想念を、瞬時に消し去ってもらえるからです。いのちがけで恩返しに生きたら、背負っている七難八苦(業想念)を、引き受けて・消し去って下さるからです。

 神さまの浄め・癒しの媒介(パイプ役)になる為には、先ず自分の心を完全に浄め尽くさなければならないのです。そして感謝を深め、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、いつも実感できるようにならなければならないのです。そうでなければ他人の業想念(七難八苦)を振り替えて、消し去ることは不可能です。他人の業想念を被るということは、自分の過去世の借金の取り立てに会っただけです。業想念の波を感じるというのは、自分の心の中に、同じ業想念の波が存在するということなのです。真の振り替えの業(わざ)は、悟りを開いて、神さまだけを実感できるようになった時に、始めて可能なのです。

 高慢な心になって、他人の業想念を背負っているのだと、いい気になっていたら、大変な目に会うのです。自分の無限の業想念の上に、更に他人の業想念まで背負ったら、地獄への道を加速することになるのです。お祈りの場・奉仕の場に近づくことも邪魔されて、貴重な救われのチャンスを失ってしまうのです。謙虚に謙虚になって、いのちがけで神さまに縋(すが)らなければ、自分の業想念を少なくすることも不可能なのです。

 七難八苦(業想念)を背負うだけでは、何の役にも立たないのです。苦を背負ったままで良いから、神さまの中へ飛び込まなければならないのです。神さまの中へ飛び込むというのは、いのちがけで感謝のお祈りをし、いのちがけで全力を尽くして奉仕することです。苦を背負って働くことが、苦労です。働くことで、本心が輝き、苦は楽に変ずるのです。苦労が大きければ大きいほど、早く大きな楽を手にすることができるのです。

 今、運命として現れているのは、過去において自分の心に思ったものが、時間の経過と共に出てきているものです。今から心に思うことは、未来において必ず形に現れて出てくるのです。これは法則です。病気になっても健康を思い、貧乏になっても豊かさを思い、悪を見ても善を思い、戦争になっても平和を思えるような達人は別にして、大部分の人は自分の心をまだ自由に支配することができないでいるのです。見たり聞いたりしたことをそのまま心に思ってしまうようでは、例えば一度病気にかかったら、病気を思い続けることになって、決して病気が治らないということになってしまいます。万事がそのとおりだとすれば、またたく間に地獄という最悪の運命に落ち込むのは当然すぎるほど当然なのです。

 ところが守護の神霊の加護によって、運命は大きく修正され、大難は小難に、小難は無難にと変化し、地獄の苦しみを味わうのが当然なのに軽く軽く済ませてもらっているのです。この事実に気付くならば、涙を流して守護の神霊に感謝しなければならないのは言うまでもないことです。自己の不運を嘆く暇があったら、守護の神霊がその地獄の苦しみを肩代わりして消し続けてくれている涙ぐましい努力に少しでも感謝を深めてゆくべきです。そして自分の心を立派に磨くために、真剣な努力を積み重ねて行かなければならないのです。

 勘違いばかりをしていては、正しい道を歩めないのです。本心の心であれば、神さまの御心を正しく受けられても、業想念の心では、逆の間違った受け方をしてしまうのです。一寸油断すると、直ぐに業想念の心の奴隷状態に陥るのです。常に本心の心をしっかりと生きていないと、正しいと思っていても、間違った道を歩んでいることになるのです。

 今の一瞬一瞬に、神さまの御心を思い返し、『すべて御心のままに!』と自分の身も心も生命も神さまに任せ、神さまの御心ならば、どんな厭なこと辛いこと不可能なことでも素直にハイ!と受入れて付き従ってゆくことが大事です。神さまと一つに融け合う生命の歓喜は、偽我をを抹殺し神さまの働きに使ってもらえるようになってこそ沸き上がってくるのです。

 偽我はつかみさえしなければ自然に消えてゆくのです。偽我は相手にしなければ勝手に消えてゆくのです。神さまをしっかりつかみ、神さまの御心をいつも相手にして歩むようにすればよいのです。常に常に神さまの御心を思い返す練習が必要です。「神さまは何を願っているか? 神さまならどのように行動なさるか?」と一旦神さまの立場に自分を置いてみて、そこからすべてを出発させることが大切なのです。今の一瞬一瞬に「神さま ありがとうございます」と祈り続けて、無我の心に神さまの御心を直感して、素直に行動を起こしてゆくことです。すなわち それが神さまの御心を現す道です。 

 本心の心と業想念の心とでは、受け取り方が全く正反対です。本心の心の立場から見ると、神さまへの奉仕は、一瞬一瞬、神さまから与えられたすべてへの感謝です。神さまの御用に使っていただけたことに対する、感謝と喜びです。だからこそ更に多大に、神さまの御用に使っていただけるようになるのです。自我の誇りや願いの微塵もないのが、本心の心による、一瞬一瞬新たなる、神さまへの奉仕です。業想念の心(自我の心)でする奉仕には、自分はこれだけのことをしたのだという自我誇りと、お返しを求める我欲が付き物です。自我誇りも我欲も、神さまの御心とは波長が合わないので、自我の心でする奉仕では、神さまの助けを受けることはできないのです。

 「人に迷惑をかけない。自分のことは自分でする。余った力で人の手助けをする。」、「報恩感謝の心で恩返しする。生活の自立を計る。他の生活を支え育てる。」、これらは人としての当然の責務です。その為には粉骨砕身・一所懸命・献身的に働かなければならないのです。そうすることで利己的な自我が消え、愛他的な本心の心が目覚めてくるのです。自己中心的な考えを捨て、自分の幸せは後回しにして、周囲の人の幸せの為に、自分を犠牲にして働くことは、本心の自分に戻る為の第一歩です。業想念の自分勝手な願いを捨て切って、他の幸せの為に自分のすべてを捧げ尽くし・与え尽くしてこそ、本心の自分に戻り易くなるのです。本心の立場に戻りさえすれば、自分の幸せに必要なものは既に豊かに与えられていることに気付くのです。業想念の心であれこれ考える暇を作らないようにする為にも、他の幸せの為に一所懸命に働くことが大切です。

 このような自分を捨て切った生活の上に立ってこそ、真実の祈りの生活は築かれてゆくのです。真実の祈りは、自分のいのちを、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くすことです。自分のこの世のいのちが今の一瞬でお終いになるかもしれないのです。この命懸けの・真剣な・死ぬか生きるかの大事な時に、居眠りをしていたり、雑念に囚われている余裕など微塵も無い筈です。自分のいのちを無条件で神さまに捧げ尽くしてこそ、神さまから永遠のいのち(本心の自覚)が与え返されるのです。

 常に神さまの御心の中から出発する生き方が、本心の自由な生き方になるのです。現実の七難八苦が無くなるのを待っていても、時間の浪費です。七難八苦の所為にして、本心の自分を生きなかったら、本心の自分に戻ることは、永遠に不可能です。過去の生き方がどうであっても、現実がどんな状態であっても、それとは無関係に、常に今を新たに、本心の自分を生きることによって、運命を自在に支配できるのです。業想念の自分を弁護するのは、愚かな愚かなことなのです。

 本心の自分を生きて、自分を完全燃焼させて、真理の灯台となることが、真実に救われた自分に成ることです。本心の自分をどこかに置き忘れていては、いくら救われを探し求めても、無駄な足掻き・徒労に終わるのです。

 真実の自己を自覚するとき、人はすでに無限の幸福を手中に収めていることに気付くのです。本当の自分に戻るには、想念感情という業の心から、本当の心である本心へと自分の心を移すことが必要不可欠です。部分にとらわれた心から全体を把握する心へと移してゆくことが、即ち全体を眺めながら部分の立場に立てる心になることが、大切なのです。

 知って犯す罪と、知らずして犯す罪と、どちらが重いか? 知らずして犯す罪の方が、はるかに重いのです。何故なら知らずして犯す罪は、歯止めが効かないからです。道理を知らないということ・無知が、一切の苦しみの根本原因であり、罪の最大のものです。本心の自分を忘れて、業想念の奴隷に陥り、守護の神霊の御心を無視して、我の心をのさばらしていては、正しい信仰の道を歩むことはできないのです。神さまを召使のように扱う御利益信仰は、間違った信仰の最たる物です。だからいつまで経っても、本当の幸せを得ることができないのです。正しい信仰とは、自分の生命をも捧げ尽くして、神さまに奉仕することです。それによって、四苦八苦する業想念の心が消し去られ、無限の無限の幸せで一杯の、本心の心に戻していただけるのです。

 (1)生命も財産も一切が、神さまからの預かりものです。みんなの幸せの為に、世界の平和の為に、生かして使うことこそが正しいのです。マイホーム主義的に・利己的に・贅沢に生きることは、癌細胞と同じような生き方になって、自壊して全体をも滅ぼす元凶となるのです。

 (2)移り変わる姿に執着することが、生命の流れを妨げることになるのです。執着心こそが、一切の罪の根本原因です。執着心の積み重なったものが、業想念・五欲の心となるのです。一瞬一瞬新たに新たに、神さまの最高表現を、感謝を深めて受け続けることを忘れ・怠ると、本心の自覚が失われ、業想念の心に陥ってしまうのです。そして神さまの与え続けて下さる折角のプレゼントを、傲慢にも知らず知らずの中に拒絶してしまって、七難八苦の状態に自分を置くことになるのです。

 (3)自分の思い通りに生きるのも、他人の思い通りに生きるのも、どちらも業想念の奴隷に陥っているのです。それでは本当の幸せを掴むことはできないのです。神さまの御心に・神さまの導きに素直に従ってこそ、真実の幸せへの道を歩むことができるのです。その為には、すべてを『神さまの御心のままに』と任せきって、ただひたすらに、呼吸をするように、『神さま、ありがとうございます』と唱え続けることが大切です。そうすることによって神さまの導きと守りを、的確にうけることができるのです。

 (4)自分の生命を神さまに捧げ尽くしてこそ、新たなる神さまの生命が与えられ、それが永遠の生命の自覚に繋がるのです。自分の生命とは、自分の時間のことです。自分の時間を、神さまの為に捧げることが、神さまの為に使うことが、自分の生命を神さまに捧げたことになるのです。即ち神さまの喜んで下さるように、感謝と奉仕の真祈りの道をしっかりと歩むことなのです。



ありがとうございますノートから

 
ありがとうございます護摩

 「ありがとうございます」護摩にも種々相があるのです。大別すれば、次の三つに分かれるのです。

 (1)人の主催する護摩です。
 思いや願いを叶える為に、「ありがとうございます」の祈り言葉を借用し、神さまの光を受けて、黒雲を白雲に変えるように、マイナスをプラスに変えようとするものです。真剣さに比例してその効果があるのです。

 (2)救済の神さまの主催する護摩です。
 すべての思いや願いを消し去ってもらう為のものです。過去世からの無限の思いを護摩木に托して、「ありがとうございます」と感謝の誠を捧げて、救済の神さまに委ねることによって、思いを大きく消し去ってもらえるのです。

 (3)宇宙の大神さまの主催する護摩です。
 すべての思いが消されて、光の自分が光源としての天照大御神と一体化する為のものです。護摩木に自己のすべてを托して、謙虚な心・素直な心・真剣な心で、神さまの御心の中へ、灼熱の炎の中へ飛び込むように、自分を捧げ尽くして、神さまと一体化するのです。

 この世へ天照大御神を呼び出す天の岩戸開きは、序の口です。入れ子構造の天照大御神様の中へ飛び込んで、無限の無限の輝きが一杯!という天照大御神と一体化するのが本当の本物の天の岩戸開きです。その為には、自我の心を微塵も出さない無限の謙虚さが必要です。神さまに無条件でハイと従える無限の素直さが必要です。自分を死に切る、自分を消し去る、無限の真剣さが必要です。

 護摩木に細字で「ありがとうございます」と沢山書くのは、一点集中して深い祈りを込める為です。
 一枚の護摩木に1000近くの「ありがとうございます」を書くことができます。また、短時間で書き上げるのも時間の一点集中の為です。



ありがとうございますノートから

 
神さまに心を向け続ける

 心の向きは、言葉によって定まるのです。『神さま』『天照大御神 今ここに 在します』『新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』『ありがとうございます』という祈り言葉は、心を神さまに向ける為の、最高最適最良の言葉です。現実を通して、神さまに心を向ける為には、『みんな天照大御神! 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』『みんな天照大御神! みんな悟っている! みんな祈っている! みんな救われている! 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』というように、『みんな』という言葉を付けて祈ると良いのです。神さまと一つに繋いで現実を眺めれば、現実に囚われることなく、神さまに心を向けることができるのです。

 神さまに自分の生命(すべて)を捧げ尽くした時に、感謝一筋の本心の自分を生きることができるのです。神さまへの全託に生きることが、最も自然な本心(悟りの心・感謝の心)開発の道です。元々すべては、神さまから与えられたものばかりです。過去の古い自分のすべてを神さまにお返しして、新しい輝いた自分を神さまから受け直すことが、一番の幸せへの道です。

 自分自身が何を選び、何を掴むかが大事です。自分の心を向け続けたものに、自分は同化してゆくのです。それがマイナスのものでも、プラスのものでも、お構い無しで、無差別に一体化してゆくのです。だから何に心を向け続けるのか、自分自身でしっかりと定めることが大事です。過去に心を向け続けたら、自分の心は過去を掴む業想念の心になるのです。神さまに心を向け続けたら、自分の心は新生する本心の心になるのです。神さまに背を向けて見ている現実は、過去のものです。神さまの現れとして見ている現実は、新生してくる新しいものです。一瞬でも神さまに背を向けたら、過去を掴むことになるのです。一瞬でも過去を掴めば、業想念の心に陥ることになるのです。常に本心の自分で有り続ける為には、いつも神さまを思い続け、神さまに心を向け続け、『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します)と祈り続けることが大切です。
 光源と光線の違いを、絶対神と救済の神々の違いを、はっきりと理解しておく必要があるのです。本当の救い主は、宇宙の大神さまだけです。どんな救いに立つ神仏も人も、あくまでも使いであり、パイプ役でしかないのです。

 神さまの御心に波長を合わせる為に必要な要素を列挙してみましょう
(1)感謝する
(2)底抜けに明るく
(3)楽天的・楽観的に
(4)喜び勇んで
(5)徹底したプラス思考で
(6)前進!前進!
(7)どこまでも謙虚に
(8)神さまに素直に
(9)全体に気配りを
(10)全責任を持つ
(11)真剣に
(12)全力を尽す
(13)限界を破る
(14)スピード化
(15)能力を高める
(16)働きを大きくする
(17)与え尽す
(18)仲良く助け合い・補い合う
(19)調和を図る
(20)新たに!新たに!

 悟りへの道、真祈りの道、徹底感謝の道は「神に始まって神に終わる道」です。一瞬間をもゆるがせにせず、常に常に、神さまの御心を思い返しながら歩む道です。神さまとは、本心の自分、真実の自己、全体者です。全体と切り離されて分離し孤立した自分は、偽の自分です。悟りへの道とは、偽我を捨てて真我の自覚を深めてゆく道です。神(全体者)である大きい自分は、肉体(部分)である小さい自分に「今」何を求め何を願っているかを常に考えながら、祈りに祈って素直に行動してゆく道です。神さまはいつも全体のため働くことを、全体のために奉仕することを願っているのです。どんな場合にも、決して小さな自己(偽我)中心に考えたり行動してはならないのです。

 本当の自分は本心(本源・根本・大本・神より分かれた心)なのだと、しっかりとその本心の自覚を深めてゆくことが、すべてを正しく理解できるようになる為の根本です。神さまと神さまの働きを、本当に正しく理解できるのは、神さまの別れである本心の心のみです。一瞬一瞬新たに新たに、謙虚に神さまの叡知を受け直すことが、本心の自覚を深め、すべてを正しく知る叡知を輝かせることになるのです。
 業想念の心(五欲)では、本物を選定できないのです。本心のみが、本物を選定できるのです。

 人は神さまをお手本に、神さまの言(ことば)を祈り言葉にすることによって、すべて神さまの御心のままに生きることになるのです。そしてその祈り言葉だけを、ただひたすらに駆使し続けることによって、感謝一筋に生きることになるのです。そうすれば必ず新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受することができ、地上天国も現前するのです。



ありがとうございますノートから

 
神さまの助けを受ける

 無限の業想念を消し去る為には、神さまの大きな加護が必要です。どうすれば本当に、神さまの大きな助けが受けられるのか? 自分自身が自分自身で、本当に納得できる答えを、見出すことが大事です。どんなに苦労してでも、自分自身の答えが必要なのです。自分自身の答えであれば、命懸けで実行できるのです。他に責任を転嫁しなくなるからです。

 一番の方法は、神さまに自分のすべてを捧げ尽くして、神さまの御用に使ってもらうことです。神さまの御用に使ってもらえば、無限の大光明を浴びて、大きく業想念を消し去ってもらえるのです。
 自分が立派になってから、神さまの御用に使ってもらおうと思うのは、非常に傲慢です。今の自分は神さまのお役に立てない駄目な人間である、と思うのは卑下慢です。また自分の力(能力・努力)で立派に成れると思うのは、非常に高慢です。どちらも素直さ・謙虚さが無いのです。神さまの助けを、頑固に拒絶しているのです。高利の無限の借金を抱えたら、どんなに努力して働いても、利息すら返せないと同じように、無限の業想念を積み重ねた人間は、自力では絶対に救われないのです。

 人類救済の為に働く高級神霊に、自分のすべてを委ねて、その御用に使ってもらうことが、真の他力の助けを受けることになるのです。甘い御利益信仰的な心で、この世的に他から助けを受けるのは、借り(業想念)を増やしているだけです。高級神霊のお手伝いをして、自分自身が大きなプラスの働きをすることによって、大きなマイナス(借り)を帳消しにできるのです。だから七難八苦の状態に置かれた時ほど、常に積極的に・前向きに、神さまの御用に使ってもらう必要があるのです。病気や怪我の時ほど、神さまの御用に使ってもらえば、病気や怪我も早く治るのです。お金に困る時ほど、神さまの御用に優先的にお金を使えば、金欠病も早く癒されるのです。どんな七難八苦の状態も、神さまのお手伝いをすればするほど、必ず速やかに消し去ってもらえるのです。

 神さまへの奉仕を第一に・最優先している人は、必ずその幸せは日に日に大きくなってゆくのです。神さまへの奉仕を忘れ、後回しにしているから、今の幸せも崩れてゆくのです。何の奉仕もしなければ、神さまの助けを受けることはできないのです。それは胸一杯に吸い込んだ空気を、少しも吐き出さなければ、新しい空気を全く吸えないのと同じ原理です。

 自分のすべてを捧げ尽くして、無条件で神さまに仕え奉るのが、神さまへの絶対奉仕です。神さまの御心に帰一・随順・奉仕すれば、必ず神さまの助けを大きく受けることができるのです。そして神さまの御用に使っていただいて、徳(大きなプラスの働き)を積むことができるのです。徳とは、神さまの御心を行ずること、即ち神さまの働きそのものです。徳を積むことが、本心を開発すること、本心を輝かせることになるのです。

 神さまへの絶対奉仕には、(1)謙虚さ、(2)素直さ、(3)真剣さ、(4)責任感、(5)使命感が大事です。神さまにすかれる心・本心の心を生きてこそ、神さまの助けを大きく受けられるのです。本心の心を前向きに・積極的に生きようとすれば、神さまへの絶対奉仕になってゆくのです。本心の心を生きようとしていたら、決して業想念の心に負けることは無いのです。
 自分の生き方の間違いを反省し・お詫びし・正して、真剣にその償いをする為に努力し続けることが大事です。甘く考えて、楽な生き方を願っていたら落第です。神さまの愛は、甘やかす愛では無く、峻厳な愛です。業想念の心を叩き潰し、本心の心を錬磨する為に、神さまは付き添っているのです。本心の心を輝かす為の手助けをしてくれるのです。自分自身が本心の心を生きようと努力しなければ、神さまの本当の大きな助けを受けることはできないのです。

 責任感の有る所に、神さまの助けは降りて来るのです。一切の責任を自己に帰す者が、神さまの全知全能を継承できるのです。そして大きな能力を発揮して、どんな難問でも解決できるのです。責任逃れの生き方は、神さまの助けを拒絶し、大損をしているのです。自分の命を神さまの御用に使っていただいている、という感謝と喜びが、本当の使命感なのです。『神、我を通して働き給う』という自覚を深めてゆくことが、神我一体・悟りを深めてゆくことになるのです。

 本心の自分を生きるということは、感謝報恩の道を真剣に実行することです。自分の思い通りに・願い通りにしたいという、一切の求める心を消し切って、与えられるままに感謝一筋に受け続けることです。贅沢をしないで、質素に生きることです。神さま以外の何ものにも頼らないことです。どんな借金もしないことです。そして一切の報いを求めることなく、報恩の心で、全力を尽くして、世の為・人の為に、神さまの御心のままに、奉仕することです。そうすれば神さまの加護を大きく受けて、本心の自覚は深まり、本心の自分は大きく輝いて来るのです。

 業想念の心を一切相手にしないで、完全に無視して、本心の心だけを徹底して生き続けなければならないのです。自分のすべてを、本心開発に一点集中しなければ、本心の自分に戻ることもできないのです。
 『今』の一瞬一瞬を、いのちがけの真剣な心で、『ありがとうございます』と感謝し続けてこそ、守護の神霊の助けを受けることができるのです。

 外界への未練を断ち切る為には、本心開発への一大決意と大勇猛心が必要です。誰でも外界への未練を一度は断ち切って、真祈りの修行に没頭しなければ、本心の自分に戻ることは難しいのです。中途半端な心は、何時まで経っても、業想念の心のままです。自分の『いのち』を神さまに捧げ尽くし続けるとは、今の一瞬一瞬を、『ありがとうございます』と感謝一筋に生きることです。神さま(無限の無限のプラス)に心を向け続けることなのです。新たな全徳の無限の無限の輝きに、ひたすらに心を向け続けることです。

 人に・物に・お金に・財産に・地位や名誉等々に頼ることは、甘えの心を生きているのです。本当に甘えの心を捨て切るということは、本心の無限力だけに信頼を置くことです。自己内在の神の力、本心の無限力だけが、本当の自分の力なのです。
 人や物を相手に生きるのは、業想念の心の生き方です。神さまや『いのち』を相手に生きるようにならなければ、本心の自分を忘れていることになるのです。

 本心の自覚を深め、本心を輝かせる為には、本心の無限力を発揮する場が必要です。何にでも挑戦して、何でもできる自分になることが、本心開発に役立つのです。常に全体に心を配って、必要なことを順番に、全責任をもって、率先して、果たしてゆくことが大事です。成すべき必要なことは、無限に在ります。
 自分に対して、大きな責任の有る仕事を、与え続けることが必要なのです。大きな目標を立て、自分の成すべきことを、すべてリストアップして一番大事な・必要なことから、順番に取り組むのです。本心を引き出す為には、(1)すべてに行き届く、(2)完璧を期す、(3)スピード化する、この三つを常に心掛けることが大切です。責任を持って果たすべき仕事を、沢山持てば持つ程、本心開発は速くなるのです。本心開発は、自分自身が全力を発揮してこそ、速くなって来るのです。甘えて・怠けていては、本心開発は後退してゆくのです。

 思いが有るから、感謝できないのでは無いのです。感謝しないから、思いの奴隷に陥るしか無いのです。思いが有るから、奉仕できないのでは無いのです。奉仕しないから、思いの奴隷に陥るしか無いのです。先ず感謝と奉仕に生きようとすることです。神さまへの絶対奉仕とは、10人前の働きをすることです。神さまの願いを汲み取って、その為に必要なことを、全力でスピード化して、実現してゆくことです。本当に神さまへの絶対奉仕に生きる覚悟ができたなら、仕事を能率的に何倍もスピード化して、朝昼晩と働く必要があるのです。そうすれば願わなくても、神さまは助けに降りて下さるのです。守りに護って下さるのです。本心の自分が輝き出て来るのです。



ありがとうございますノートから

 
全託は絶対条件

 神さまへの全託が、幸せへの絶対条件です。
 神さまへの全託とは、与えられるままに受けることです。一瞬一瞬新たに新たに無限の無限の幸せを与えられているそのままを、素直に受け取ることが、真の神さまへの全託です。

 今自分がどんな環境・立場に置かれていても、どのような心の状態に置かれていても、「ただ ひたすらに『ありがとうございます』と神さまの中へ融け込むこと」即ち「祈り」を続けてゆきさえすれば、過去の業想念の自分は知らず知らずのうちに消し去られ、神さまの光を携えた本心の自分として、一瞬一瞬新たに生まれ出てくることができるのです。今自分の置かれている環境・立場・状態というものは、神さまが今の自分にとって一番必要な勉強の材料として与えて下さっているものです。無限の完全な知恵の持ち主である神さまが、一つとして必要のない、無駄なものを与えるわけがないのです。すべては神さまの絶対の愛の現れです。ただそのように受け止めて感謝し、喜べないのは、自分が幼稚で、受け止めかたが未熟で下手なだけです。だからこそうまずたゆまず練習を積み重ねてゆくことが必要なのです。

 神さまへの全託とは、業想念の惰性に任せることでは無いのです。何の努力もしないで、棚からぼた餅式の僥倖を願うことでは無いのです。神さまの御心を現実化する為に、神さまの知恵に導かれ、神さまの能力を発揮し、全力を尽くすことです。その為には先ず、過去世からの無限の業想念を、すべて消し切らなければならないのです。自縄自縛(じじょうじばく)している、業想念の心の縛りを、すべて断ち切ることが大切です。神さまへの全託が本物になる迄は、守護の神霊の加護を受けて、業想念の心を消し続けてもらわなければならないのです。

 『すべて神さまの御心のままに、感謝一筋に生きることを誓います。』この全託の誓いは、本心の自分を生きようとする、本心の自分の意思表示です。神さまが言霊によって、神さまの世界を創造されるように、人は言葉によって、自分の世界を創造するのです。神さまの世界は、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯の世界です。人の世界は、その人の使う言葉通りの世界です。意思表示は、言葉を定め、心の状態を定めるのです。人は神さまをお手本にすることによって、神さまの御心に近づけるのです。

 全託にも無限の無限の段階が在るのです。正しい全託と間違った全託が有るのです。大きい全託と小さい全託が有るのです。深い全託と浅い全託が有るのです。自己の全存在を宇宙絶対神に捧げ尽くすのが、本物の全託です。至忠・至考・至悌、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕、感謝三昧の真祈りの道が、本物の全託です。本物の全託になれば、常に新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。古い自分を捧げ尽くして、新しい自分に生まれ変わることが、本当の全託行です。

 肉体は本来 神さま(本心)の使い給う道具であり、器であり、宮です。心が空(神の御心のみを受入れる状態)になれば、神(本心)入り来りて、その肉体を真・善・美・聖を現すために使い給うのです。心を空にするには、守護霊・守護神に一切を任せ、感謝し続けることです。過去世から積み重ねて来た無限無数無量の業想念をすべて浄め、消し去ることは、守護霊・守護神の大きな大きな愛の働きが無ければ不可能です。この世にどのような七難八苦が現れてこようとも、すべて業想念を速やかに消し去るために、守護霊・守護神が大難を小難に軽く軽く済ませて消し去ってくださる愛の働きであると、心の底から喜び感謝し続けることが何よりも大切です。

 守護霊・守護神の愛の働きを信じて感謝できる心は本心の心です。現在の自分の心の状態が無限の業想念で一杯で真っ暗闇に思えても、守護霊の愛を信じて感謝することができるならば、そこには本心(宇宙神・守護神・守護霊)の光が射し込んで心を明るく照らしてくれているのです。始めは蝋燭の灯のような小さな光で心全体を明るく照らすことができないかも知れませんが、感謝の積み重ねに比例して、だんだんとその光は明るさを増して、無限の大光明に変化してゆくのです。そうなれば一切の業想念は消え去って、心は空になり、神(本心)入り来たりて、本心の自分として自由自在に明るく楽しく幸せ一杯に生きることができるのです。



ありがとうございますノートから

 
謙虚に! 素直に!

 本心の心の立場に立つことは、謙虚に謙虚になることです。これが自分だという過去の姿を掴んでいては、決して謙虚になれないのです。過去の善き姿を掴むだけで、高慢になったり、エリート意識に陥ったりするものです。また過去の悪しき姿を掴むだけで、卑下慢になったり投げやりな自暴自棄の状態に陥り易いものです。謙虚になるということは、マイナスを掴んで、心をマイナスで一杯にするということではないのです。マイナス無限大の立場に立って、心を空っぽにして、神さまの全徳の無限の無限の輝きの全てを、素直に感受できる自分になることです。

 謙虚になる為には先ず、自分のすべては、神さまから与えられたものばかり、ということに気付くことです。傲慢さ(高慢と卑下慢)は、神さまの恩愛を無視し・拒絶するところから生ずるのです。すべてをプラスに、感謝一筋に受けてゆこうとすれば、謙虚に成れるのです。
 素直になる為には先ず、自我の心(過去に積み重ねた業想念の心)を捨て去ることです。過去の体験・経験に立脚して、自我の心を生きようとしていては、決して素直には成れないのです。過去の一切を、神さまにお返しすれば、自我の心を消し去ってもらえて、素直になれるのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに、受け直すことが、本当の素直な生き方です。

 マイナスに見える自他のどんな姿に対しても、みんな自分の責任なのだと、心からお詫びすることによって、下へ下へと自分の心の立場を移してゆくことができます。心の立場を下へ移せば移すほど、謙虚になれて、神さまの最高表現を感受し易くなるのです。自己弁解したり、他に責任を帰するようでは、いつまでたっても、謙虚な本心の自分には戻れないのです。

 神さまの本当の助けを受けてこそ、祈りの姿勢も心身共に整うのです。神さまが自分の中に入り来れば、青空に太陽の輝くような心となり、姿勢も威儀端然としてくるのです。先ずは謙虚に謙虚になることを心掛け、他をマイナスに見て責め裁く、業想念の心を捨て切ることです。『神さまをマイナスに見て御免なさい』と、心の底から詫びて詫びて詫び続けることです。その謙虚な心の中へ、神さまは入り来るのです。

 真実の祈り・真実の感謝とは、暗黒の極・マイナスの極・地獄のどん底に立って、一瞬一瞬新たに、『天照大御神 今・ここに 在します』と、全徳の無限の無限の輝きを、心にしっかりと受け入れることです。宇宙絶対神が与え続けて下さっている、全徳の無限の無限の輝きは、本心の自分をしっかりと自覚して、謙虚に感謝を捧げてこそ、心に感受できるものなのです。全大宇宙のすべてのすべては、善くなるように・良くなるように・好くなるように・よくなるようにと、一瞬一瞬変化し続けているのです。これは厳然たる真実です。ところがそのように感受できるのは、本心の感謝の心だけなのです。本心の心をしっかりと呼び起こして、謙虚に感謝し続けてこそ、一切はプラスにプラスに好転してゆくのです。

 謙虚に感謝する本心の心であれば、どんなに辛い境遇に置かれても、その置かれた境遇の中で、さらに感謝を深めてゆこうとするものです。この一生が七難八苦の連続であっても、喜んで喜んで、その苦痛に耐え抜かなければならないものなのです。救われるのは、幸せになるのは、この本心の自分であって、業想念の心の自分では無いのです。

 本当の謙虚さとは、マイナス無限大の・地獄のどん底の・これより下は無いという立場に、先ず自分を置くことから始まるのです。自分自身のこれまでの生き方が、本当に正しいものであったかどうかを、厳正に見極める必要があるのです。人間としての自分が、勝手に正しいと思い込んでいても、神さまの目から見た時に、本当に正しいかどうかは、疑わしいものです。例えば、宇宙のすべては神さまの所有(もの)なのに、人間が勝手に自分の所有を持っているということは、人間は神さまの所有(もの)を盗み取った大泥棒ということです。また人間が贅沢な生活を楽しんでいるということは、自然を破壊し、動物を殺し、残虐非道な殺戮を犯しているということです。本当の正しさは、神さまの御心に叶っていなければならないのです。そういう観点から判断するだけでも、本当に正しい生き方をしている人間は、皆無に近いと言わなければならないのです。

 神さまの助けを受けて、地球人類の滅亡を防いでいただく為には、地球人類はもっともっと真剣に、謙虚に感謝を深めてゆかなければならないのです。地球人類が心の中に作り上げた地球人類滅亡の運命は、そのシナリオ通りに現れたら、想像を絶する大惨事となるのです。感謝の無い人間の運命を修正するのは、神さまにとっても至難の業です。運命として当然受けなければならない地獄の責め苦を、億分の一以下に軽減してもらっても、この一生は七難八苦の大難の連続になるのです。神さまの無限の無限の守りに対して、涙を流して・感謝し・喜ばなければ、神さまの御心に叶った謙虚な感謝にはならないのです。

 神さまからのプレゼントを沢山受けるには、素直な心が大事です。余計な遠慮は無用です。素直に成れば成るほど、神さまからのプレゼントは、沢山受けられるのです。無限の無限のプラスが、無限に無限に一杯! ハイ! ありがとうございますと受ければ良いのです。一瞬一瞬新たに新たに、ありがとうございます! ありがとうございます! と受け続ける練習です。

 世の中の多くの人々は自分の力で生きようとしています。自分の力で善を積み重ねて神に近付こうとしているのです。善いことをしなければ神に救ってもらえないと考えているのです。しかしこの考え方は間違いです。なぜならば人間は本来「神に生かされている」のです。神の力によって何事も「させていただいている」のです。神の助けが無ければ人間は全く無力です! 神を離れた人間に一体どんな力があり、どんな善いことができるというのでしょうか?

 神の救いには善人悪人の差別は無いのです!
素直に神の愛を信じて受け入れるものが救われるのです。悪を責め裁く心は神の愛を拒絶する心です。善を為さなければ救われないという考えは、神の愛を疑う心です。神を離れた人間にはどんな小さな善も、どんな小さな正しいこともできないのです。神の愛の輝き出ている時のみが善であり、正しいことだからです。

 謙虚と素直は、神さまの愛を喜んで受け入れる心です。素直とは、自然に与えられるすべてのものを、プラスに感受して、無限に無限に喜ぶことです。謙虚であれ! 素直であれ! ということは、常に本心の自分であれ! 本心の自分をしっかりと生きよ! という意味です。真実の無限の無限の幸せを感受できるのは、本心の自分だけです。本心の自分は常に謙虚で、素直です。本心の自分は、神さまの愛の光を受けることによって、より大きく輝くのです。現実の自分はまだ小さい本心であっても、その本心の自分をしっかりと生きなければならないのです。本心の立場に立つことによって、神さまの愛の光を大きく受け入れることができるからです。そしてより大きな本心となって、本心の立場に立ち易くなり、本心の自分を生き易くなるのです。本心の自分を生きることによって、本心の自覚が更に深まってゆくのです。 

 自分自身の怠慢の結果を、他人の所為にして、責任逃れをしていてはいけないのです。マイナスの極まで降りる努力をすれば、謙虚に謙虚に成れるのです。そうすればすべてを大きなプラスに感受できるのです。感謝と報恩の心をしっかりと生きれば、すべてはプラスにプラスに置き換わって来るのです。どんなマイナスをもプラスに置き換え、神さまの最高表現を現実かしてゆくことが、本心の自分をしっかりと生きているかどうかの、バロメーターです。本心の自分を生きるかどうかは、自分自身の問題です。他人に言われても、他人に強制されても、自分自身が本心の自分を生きようとしなければ、決して生きることはできないのです。自分自身が本心の自分を生きようとさえすれば、何ものも邪魔することは不可能です。

 高い番組に生きる人は、低い番組に合わすのは容易です。低い番組に生きる人は、高い番組に合わすのは困難です。救済の神々の助けは、高い番組から低い番組へと、波を合わせて降りて来るのです。わざわざ高い世界から低い世界に、救済の為に降りて来るのは、愛深いからです。しかしながら謙虚な心・素直な心・真剣な心・感謝の心・恩返しの心を前面に押し出さなければ、救ってもらえないのです。傲慢な心・頑固な心・怠け心・不足の心・求める心では、救済の神々の心とは波長が合わないからです。



ありがとうございますノートから

 
環境は心の鏡

 神はすべてのすべてであり、神の外に何者も存在しない。これは絶対の真理です。本心(真実の心)で神さまに相対するとき、宇宙のすべては神さまと神さまの現れであることが実感されるのです。ところが人には自由意志が与えられていて、自分の思い通りに・願い通りに生きたいという時には、必ず人の自由意志を尊重して、その生き方を最優先してくださるのです。神さまが奥に引っ込めば、光明が消えて、闇となるのです。明るい方から暗い方へ向く時、神さまは鏡(《かみ+が》即ち《かがみ》)となって現れてくるのです。

 立ち向かう人の姿は鏡なり 己が心を写してや見ん
 立ち向かう人の心は鏡なり 己が姿を写してや見ん
 三界(業因縁の存在する世界)は 唯心所現の世界なり。

 これらの真理はいずれも、もしこの宇宙の中に、一つでも神さまと神さまの現れ(真・善・美)で無いものを感じたとしたら、それは自分の業因縁の心が鏡に写っているのであり、業因縁の心の色眼鏡を通して見ていることを示しているのです。

 自分の世界、自分の見ている世界は、自分の心の状態を鏡に写し出している世界です。自分の見ている世界全体が、自分の心の状態を反映しているのです。自分の心の状態が変化すれば、自分の見ている世界も変化します。環境は心の鏡なのです。



ありがとうございますノートから

 
光と闇

 「暗闇が在る」というのは、自分の立場から眺めて、自分の抱いている光と比較して、「光明が乏しい・光明が無い」と認めているに過ぎないのです。暗闇は積極的な存在ではなく、ある立場から見て、「光明が乏しい・光明が無い」という、比較上の虚の状態に過ぎないのです。宇宙絶対神は、『無限の無限の大光源』『無限の無限の大光明』そのものです。だから宇宙絶対神の表現としての全大宇宙には、無限に小さい光から無限に大きい光まで、無限の段階の光の表現だけが存在するのです。ところが大きい光の立場から、小さい光を眺めると、暗く感じられるのです。相対的な比較上の問題として、大きい光の立場からは、小さい光は暗闇に感じられるのです。このことは理の当然であって、暗闇として感じることは、善でも悪でも無いわけです。 

 人にとって大切なことは、天浮橋(相対の両極)に立つということです。無限の無限の大光明という立場に立つ時は、暗闇に対して、光を投げ与えるだけでよいのです。暗闇から光を求めることは、全く必要が無いのです。報いを求めずに、ただ与えるだけでよいのです。これは愛の心の一面の、『思いやり』に相当するわけです。反対に暗闇の立場に立つ時は、無限に小さい光をも、何と素晴らしい光であることよ!と褒め讃え・感謝し・喜んで、自分の心の中にしっかりと包容すればよいのです。全大宇宙のすべてのものを、素晴らしく感じて、心にしっかりと包容することは、愛の心のもう一面の、『寛容』に相当するわけです。自分に少しでもプラス面が有るならば、それは他へ与え尽くす為に循環してきたものです。比較して自慢したり、他を軽蔑したりする為のものでは決して無いのです。また自分が他から何かを与えられようとする時は、それがどんなに小さい光であっても、必ず自分にとって必要不可欠な光なのです。小さい光だから要らないと、決して拒絶してはならないのです。光一元に仰ぎ見て、すべてから光を吸収することが、本心の自分を大きく輝かすことになるからです。

 宇宙は神さまの愛の表現です。思いやりと寛容の両徳の表現です。人もまた『愛』の心を生きるのが、一番自然なのです。思いやりと寛容の心をもって生きる時、人は何の無理も無く自然に、いつもいつも『無限の無限の幸せで一杯』になるのです。宇宙絶対神の全徳は、無限の無限の大光明燦然と、常に常に輝き渡っているのです。その光をどれだけ受けるかは、一人一人の完全な自由に任せられているのです。先ずは自分の持っているすべての光を与え尽くし、その後、光一元に眺めた宇宙のすべてから光を吸収するのです。その循環を速く大きくしてゆくことが、本心の自分を大きく輝かせる生き方なのです。



ありがとうございますノートから

 
どんなことも、プラスに受ける

 宇宙(世界)は、神さまの表現です。その神さまの表現を、正しく感受することによって、無限の無限の真価値を、見出すことができるのです。感受の仕方が間違っていたら、真の価値を見出すことができなくなるのです。
 「今・此処」に与えられているものを、プラスに受けるか、それともマイナスに受けるかによって、その人の運命が善くなるのか、それとも悪くなるのかが決定されるのです。どんな物事でも、プラスに受けようと思えばプラスに、マイナスに受けようと思えばマイナスに受けることができるのです。その受け方を決めるのは、あくまでも自分自身です。本当に無限の無限の幸せを願っていれば、必ずプラスの受け方をしてゆくのです。

 何事も感謝で受けて喜ぶ為には、移り変わる宇宙のすべては、愛と知恵の持ち主である神さまの御心のままに、一人一人に一番相応しいものとして的確に与えられている、と知ることが大事です。神さまの与えるものは、プラスのものばかりです。いついかなる時にも、すべてをプラスに受ける為には、自分の立場をマイナス無限大に置けばよいのです。マイナス無限大は宇宙創造の原点です。神さまはマイナス無限大を創造の出発点にして、そこへ無限の無限の大光明を加えて、光一元の妙趣あるプラス無限大の表現を、一瞬一瞬新たに、創造し続けているのです。マイナス無限大の立場に立つということは、神さまの働きのすべてをプラスに感受して、神さまの御心を正しく理解する為に、必要不可欠なことです。何事もマイナスに受けるのは、神さまの御心を正しく理解できていないからです。絶対の愛の神さまを、マイナスの言葉を使って悪者にしているからです。神さまについての勉強不足と、マイナスの言葉を不用意に使った結果なのです。だからマイナスに受けた時は、自分自身に全責任があるのです。

 もしマイナスに感受するものが少しでも有ったら、反省し・お詫びして、高慢な心を消し去ってもらうことが必要なのです。高慢な心の奴隷に陥るのは、本心の自分の力を発揮しないで、怠けているからです。

 自分の思い通りに生きようとする生き方を捨てて、すべてを神さまの御心のままにと感謝一筋に生きるようにならなければ決して真実の幸福をつかむことはできないのです。すべての不幸な姿は、神さまへの感謝を忘れていることに対しての警鐘です。病気の人はこの病気さえ治れば幸福だと思うかもしれませんが、その程度の思い方では幸福もたかが知れているのです。なぜ既に与えられている健康な部分に対して感謝してゆかないのでしょう。神さまへの感謝を忘れた生き方では、全身に万病を抱えて当然なのに、どうして今与えられている健康を無限の感謝で受け止めてゆかないのでしょう。

 マイナスの極以外の立場に立つ時は、その立場から下のものに、何の価値も見出すことができないのです。そしてマイナスに見えるものを、自分勝手に切り捨てることになるのです。マイナスに見て切り捨てたら、それに対応するプラスをも失うことになるものです。
 宇宙のすべては、相対の両極の働きによって、バランスが保たれているのです。絶対が相対的に表現される時には、必ず相対の両極・両方が、同時に存在しているのです。相対のどちらか一方だけが表現されるとうことは、決して無いのです。光が表現される時には、必ず闇も同時に表現されるのです。時間が表現される時には、必ず空間も同時に表現されるのです。相対に分かれるものの、どちらか一方が表現される時には、必ず他方も同時に表現されるのです。

 プラスをより多く感受する為には、マイナスへの感謝・思いやりを深くしてゆくことが大切です。マイナスを責め裁き・切り捨てることは、同時に自分に与えられるプラスをも破壊していることになるのです。マイナスを光一元に眺めて、プラスに受けてゆく感謝は、そのままプラスを大きくすることです。

 善い環境に置かれて、善い心に成れても、未だ本物とは言えないのです。どんな悪い環境に置かれても、善い心を保持できた時に、本物と言えるのです。環境の影響を受ける心は、業想念の心です。業想念の心では、現実のマイナスに引っ掛かって、必ず心はマイナスに陥るのです。本物・本心の心は、常に神さまだけを相手にするのです。だからすべてをプラスにプラスに受けてゆけるのです。

 神さまの御心の中から出発する者は、本心の心を生きているのです。現実から出発する者は、業想念の心を生きているのです。本心の心を生きることによってのみ、マイナスをプラスに変えてゆけるのです。

 大きく分けた無限のチャンネルの中から、この世という一つの番組を選んで、この世に生を受けて生かされているのです。この世という一つの番組もまた、無限のチャンネルに細分化されて、その一つを選んで各自それぞれに、異なる運命を味わっているのです。だから同じ運命の人は一人もいないのです。この世に平等ということは有り得ないのです。『人を見て法を説く』というように、仏も一人一人に合わせた法を説くのです。万人いれば、万の異なる法を説くのです。それでなければ、人の自由を縛った、悪平等がはびこることになるのです。

 同じ一つのことに対しても、人の受け方も千差万別・無限に変化するのです。万人寄れば、万人の受け方があるのです。また同じ人であっても、時間の経過と共に、受け方が無限に変化するのです。マイナスに受けるのも、プラスに受けるのも、一人一人の自由です。思いの心を生きる人は、マイナス思考に受けがちで、感謝に生きる人は、プラス思考に受けやすいのです。思いを溜めて、惰性に生きる人と、思いを消して、真剣に生きる人の違いです。 



ありがとうございますノートから

 
言葉の力

 『思う通りに成る』『言葉の通りに成る』のです。これは宇宙を貫く、厳然たる法則です。誰一人として、この法則の外に出ることはできないのです。法則というものは、常に厳正かつ公平無私なのです。身口意(行い・言葉・心)の三業(三つの働き)は、プラスにもマイナスにも厳然と働くのです。 

 プラスの言葉を使えば、心はプラスの状態に成り、マイナスの言葉を使えば、心はマイナスの状態に成るのです。今の心の状態は、過去に使った言葉通りです。心のままに動くというのは、心の奴隷状態です。言葉の使い方を間違えば、本心の意思通りには成らないのです。このギャップを速やかに埋める必要が有るのです。

 本当の自分は、神さまと一体・同体です。即ち常楽我浄そのものです。常(永遠不滅)楽(無限の無限の歓喜)我(唯我独尊)浄(真清浄)そのものの自分は、一切のマイナスは無いのです。
 全大宇宙には、宇宙絶対統一神という放送局から、無限の無限のチャンネルの異なる放送番組が霊波として放射されているのです。神さまが与えて下さる、無限の無限のチャンネルの番組の中から、何を選び、何を受けようとしているのか、自分自身が決定しなければならないのです。自分自身が番組選びの総責任者です。人はどんな運命でも享受できるのです。自分自身に自由選択の権利と責任が有るのです。

 言葉によって、チャンネルを合わせることができるのです。ここで言う言葉とは、広義の言葉です。文字だけでは無く、風景・映像・絵画・彫刻等々も、音楽・自然の響き・雑音等々も含まれるのです。心に取り込んだすべての言葉は、チャンネル合わせの予約になるのです。もしマイナスの番組を見たく無いのであれば、心の中のマイナスの言葉を消し去って、予約を取り消せば良いのです。

 人間が苦しむのは、熱中する余り、その放送番組の中に巻き込まれて、その中の登場人者に成り切って執着するからです。執着しなければ苦しみは無いのです。低い番組ほど執着すればその苦しみは大きいのです。それは本心の自分と低い番組の登場人物との差が極端に大きいからです。高い番組であれば仮に執着しても、本心の自分の姿がより多く表現されているから、そのギャップの少ない分だけ苦しみは少ないのです。

 運命(命を運ぶ)を前向きにする為には、プラスの言葉を駆使しなければならないのです。過去にマイナスの言葉を使いすぎた為に、心もマイナスに向いていて、運命もマイナスに向いているという人はこの世には多いのです。そういう人にとっては、心もなかなか明るくならないし、運命も希望通りには運ばないのです。だからといってプラスの言葉を使わなかったら、ブレーキの効かない車が坂道を転がり落ちるように、加速度的に運命は悪くなってゆくのです。マイナスの惰性を打ち消すだけでも、大きなプラスの力が必要です。

 『徳を積む』ということが、運命を幸せな状態にする為には、必要不可欠なのです。不運を嘆いているだけでは、決して幸せになれないのです。またこの世に幸せを探し求めているだけでは、決して幸せは実現して来ないのです。先ず心の中の運命のフィルムを、幸せな状態に変えなければならないのです。この世の運命はすべて、心の中に形成された運命のフィルム通りに、投影されて実現してくるからです。運命のフィルムは、心に受け入れたものによって形成されるのです。心の中に何を受け入れるかは、自分自身が取捨選択して、すべてを決定しているのです。無防備に何でも受け入れる場合も、自分自身が心の門戸を開放しているからです。

 徳とは、神さまの愛の働きです。徳を積むとは、心に神さまの愛の働きを感受することです。最高最大の徳とは、宇宙絶対統一神・天照大御神の全徳の無限の無限の輝きです。最高最大の徳を積むとは、一瞬一瞬新たに、天照大御神の全徳の無限の無限の輝きを、心にしっかりと受け入れることです。真実の徳積みは、感謝の祈りによってできるのです。心に徳(神さまの愛の働き)を受け入れるということは、この世からも、あの世からも、直接天照大御神からも、どこからでも可能なのです。神さまの愛の働きとして、プラスに受け入れたものはすべて、徳となって、心に蓄積されるのです。この世の徳行は、心に積まれた徳が、形に現れて消えてゆく姿であって、徳消えです。それを謙虚な心で、善いことをさせていただけた、ありがとうございますという心になった時に、新たな徳を大きく積み直させていただけるのです。それを自分はこんな善いことをしたのだと高慢になった時には、徳積みでは無く、徳消えであり、さらには業積みになるものです。
 
 徳を積むのは、本心の自分です。本心の自分が、神さまの愛の働きを感受して、プラスにプラスに受け入れたものが、徳になるのです。業想念の自我の心ですることは、すべて業積みなのです。本心の徳積みは、光(神さまの働き)を受け入れるのです。自我の心の業積みは、白雲(善事)でも黒雲(悪事)でも、雲の積み重ねです。白雲も多くなれば、黒雲に変化してゆくのです。どんな素晴らしい伝統・風習を守るにしても、神さまを忘れて、過去に生きる時には、新しい時代にそぐわない縛りが生ずるものです。自由を縛るのは、悪であり、不幸の源です。神さまの愛の働きは、常に今を新たに、すべての縛りから解放し、自由にするものです。運命のフィルムに業想念が付着して、それが投影されて、様々な縛りとなっているのが、この世の七難八苦です。その付着した業想念を消滅できるのは、神さまの光(全徳の無限の無限の輝き)だけです。業想念(自我)の力では、どんなに小さな業想念も、消し去ることができないのです。

 現在の自分の心境・運命・境遇というものは、過去の自分の言葉・思いの総決算として現れているのです。どんな過酷な・悲惨な運命も、自分自身の行い・言葉・心で、しっかりと選び取ったものです。他人の所為で自分の運命が少しでも変化するとすれば、自分の運命が善くなる確証は無くなるのです。自分自身に全責任が有るからこそ、自己の責任において、運命を自由に変えることができるのです。自分の世界のマイナスを、他人の所為にしたら、大きな間違いです。もし他人の所為にする言葉を使ったら、自分の世界に、無責任な自分が現実化して来て、マイナスが増えるだけです。

 他人に責任を転嫁する、甘ったれた・狡い・無責任な、言葉・心・行いの人は、いつまでも同じような運命の中に自分を置くことになるのです。自己弁解し・言い訳ばかりし・自己主張する人は、いつまでも似たような境遇の中に自分を置くことになるのです。怠けて働かない・楽して儲けようとする人は、自分にそっくりな人から同じような仕打ちを受けて、マイナスへの運命を歩むものです。自分の言葉・心・行いを改めない限りは、厳然と自分の言葉通りの運命・自分の心の通りの運命・自分の行いの報いられた運命が、次から次へと現れて来るのです。
 しかし嘆くことは要らないのです。それをハンディキャップに変えて、マイナス無限大から出発して、本心の無限力を、一心不乱の祈りのよって引き出してゆけば、その人は無限の無限の喜びを自分のものにすることができるからです。

 人の噂は決して信じてはいけないのです。大事なことであれば、自分自身が直接に確かめるべきです。自分の口から出た言葉に対する責任は、仮に噂として流しても、必ず自分自身に降りかかって来るのです。噂に同調したということは、その噂を流した者と同罪です。正しく白を白と言っても、黒を黒と言っても、反対に白を黒と言っても、黒を白と言っても、自分の言った言葉が引き起こす結果に対しては、その責任はすべて自分自身に降りかかって来るのです。

 人からの伝言を聞く場合も、そのまま鵜呑みにしては間違うものです自分自身が直接に聞く場合でも、相手の意向を正しく汲み取ることは難しいのです。ましてや他人が間に入って、間接的に聞く場合には、相当なずれが生じるものなのです。受ける側の自分に、すべての責任があるのです。

 仏教に如是我聞という言葉があります。お釈迦様の真理の説法を、弟子達はそれぞれに、自分はこのように聞いたというように、謙虚に他に伝えているのです。お釈迦様がこのような説法をされたというのは、間違った表現です。お釈迦様の説法を自分はこのように聞いたというのが、正しい表現なのです。人の言葉を他に伝える場合も、あの人の話を自分はこのように聞いた、というのが正しいのです。どのような話を伝え聞く場合も、直接に対話している人の考えだけを、自分は聞いているのだということを、肝に銘じておく必要があるのです。直接に伝える必要があれば、必ず自分で直接に伝えるべきです。直接に聞く必要があれば、必ず自分で直接に聞くべきなのです。

 すべては、自分の言葉の表現なのです。すべては、自分の言葉通りに・願い通りに・思い通りに、成っているのです。自分の未来のすべては、これから駆使する言葉によって、どうにでも成るのです。過去のすべては、これから駆使する言葉によって、自由自在に変えてゆけるのです。過去に縛られることは全く無いのです。過去から自由になるのも、過去にいつまでも縛られているのも、今の自分の駆使する言葉次第です。

 神さまのように生きたいのであれば、神さまの使う言葉を、自分も駆使する必要があるのです。無限の無限のプラスの言葉を、断定的に、駆使し続けることが、何よりも大切なのです。『一瞬一瞬新たなる、全徳の無限の無限の輝きで一杯!』と、断定的に自分を褒め讃え続け、過去・現実を完全に無視することも必要なことなのです。どうしても現実を見なければならないのであれば、マイナスの極から、すべてを光一元に眺めて、プラスに見直し・思い返して、プラスの言葉だけを駆使するように心掛けることです。プラスの言葉を使えるように助けてもらう為にも、真剣に・前向きに・積極的に、自分自身がプラスの言葉を使わなければならないのです。



ありがとうございますノートから

 
真剣な生き方−神さまの御心を生きる

 本心の自分を引き出す為には、真剣さが必要です。自己限定の思い(限界)を打ち破る為には、常に真剣に、限界破りに挑戦する必要があるのです。過去世に積み重ねた無限の業想念は、常に本心の現れるのを邪魔しているのです。この業想念を消し去ろうとする、一大決意と一大勇猛心が必要です。

 真剣になる為には先ず、古い自分を神さまにお返しすることです。古い自分を捧げたら、引替えに、新しい自分を受け直せるのです。自分のすべてを引き替えにすることが、『命懸け』なのです。そうすれば『今』の一瞬一瞬に、無限の無限の価値を見出して、大事に生きることができるのです。

 自分の蒔いたマイナスの種を、無責任に放置していては、マイナスはどんどん大きく殖え続けるのです。過去世からのマイナスの身口意の三業は、無限に大きくなっているのです。各自の蒔いてきたマイナスの種は、地球上の全ての樹木の数以上に、大きく育っているのです。そのすべてを切り倒して、焼き尽くすほどの、一大決意をもって取り組まなければ、マイナスを消し去ることはできないのです。無限の無限のプラスの祈り言葉を駆使して、死に物狂いで・命懸けで・真剣に・一心不乱に祈るのは、短期間に処理しなければ、マイナスを減らすことはできないからです。悠長なことをしていては、マイナスは大きく殖える一方です。

 宇宙絶対統一神・天照大御神と対面する為には、真剣さが必要です。『いのちがけ』の感謝、『いのちがけ』の奉仕に明け暮れるようにならなければ、天照大御神を感受できる心にはなれないのです。『無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!』の天照大御神を感受する為には、灼熱の炎の中に飛び込むだけの、勇気と真剣さが必要なのです。いのちも何も要らないと言えるだけの、一大勇猛心を奮い起こさなければならないのです。

 太陽を見たからと言っても、自分が太陽に成れたわけでは無いのです。太陽に成る為には、自分のすべてを太陽に与え尽くして、自分を消し切らなければならないのです。神さまの大きな光を感じたからと言っても、自分が神さまに成れたわけでは無いのです。神さまに成る為には、自分のすべてを捧げ尽くして、神さまへの絶対奉仕に生き続けなければならないのです。自分が完全に消え去った時に、神さまが現前するのです。

 神さまへの絶対奉仕に生きるとは、神さまの御心のままに生きることです。神さまの目的を自分の目的とし、神さまの願いを自分の願いとするのです。一切の自分の願いを出してはならないのです。我の心を微塵も出せないのです。例えば「神の御心を示し給え」というのは、我の願いになるのです。自分の方から、いのちがけで・真剣に、神の御心を汲み取ろうとしなければならないのです。また「神の御心のままに動かし給え」というのも同じです。神に命令しているようでは、大きな我の心になるのです。自分の方から、神の御心を汲み取って、真剣に動き出さなければならないのです。

 神さまは人の自由意志を絶対に縛って来ないのです。人は神の奴隷・操り人形になっては間違いです。人は完全な自由を保ちながら、神の意志に一致してゆかなければならないのです。どこまでもどこまでも、神の意志に完全に一致するまで、精進努力し続けるものなのです。永遠に終わりが無いからこそ、神さまの偉大さが実証されるのです。行き止まりの無いのが、無限の無限が、本当の神さまの御心なのです。

 本心の心・与える心を生きるのを怠って来たから、無限の業想念(無限の借金)を積み重ねたのです。だから本心の心・与える心を生きようと、命懸けで努力することが、救済の神々の助けを受ける為の必須条件です。無限億万分の一秒という短い一瞬一瞬に、新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受するということは、並大抵の真剣さでは不可能だからです。神さまの与えようとする真剣さに比べ、人の受けようとする真剣さが、余りにも足りなさ過ぎるのです。常に新生している本心の心でも、一寸油断すれば大きく受け損なうことになるのです。

 真剣とは、スピード化することです。より短い時間に、より多くのプラスのものを神さまから受け、それを現実化することです。真剣な心は本心の心です。本心の心が大きく輝き出て来れば、真剣な心に自ずから成るのです。逆に真剣な生き方をすれば、自ずから本心の心は大きく輝き出て来るのです。命懸け即ち命を捧げる心になれば、真剣に成るのです。真剣というのは、快刀乱麻を断つのです。どんな難問題でも即座に解決するのです。真剣な心・本心の心というものは、無限の知恵・無限の能力・無限の力を備えているのです。何事も真剣に、本心の心で相対すれば、道は開け、問題は解決するのです。真剣な心の前には、不可能は無いのです。真剣勝負は、一瞬の油断もできないのです。スピードの遅れが、命取りになるのです。

 祈りによって神さまに奉仕したいのであれば、寝食を忘れて、祈りに祈る練習が必要です。一瞬たりとも、祈りを忘れない真剣さが必要です。その真剣さを引き出す為にも、普段の日常生活の中で、何事にも真剣に打ち込むことが大事です。一分一秒を、大事に大事に、活かし切らなければならないのです。

 神さまの最高表現に波長を合わせる為には、『スピード化する』ということが、大事な要点になるのです。高次元の番組は、実現のスピードが速いのです。低次元の番組は、実現のスピードが遅いのです。高次元波動は、千速振る波であって、高周波の精妙な迅速な波です。低次元の波動は、荒振る波であって、低周波の粗雑な緩慢な波です。神さまの御心に近い本心の心は、何事も瞬時に、直感し・理解し・把握し・決断し・実行するのです。神さまの御心から遠い業想念の心は、何事もぐずぐずと、考え・迷い・ためらって、実行に移すのが遅いのです。同じ仕事をしても、本心の心は短時間で済むのです。業想念の心は、長時間かかって、その上に何倍も効率を悪くするのです。
 神さまへの奉仕について大事なことは、神さまが何を願い・何を必要としているかを、瞬時に把握し、瞬時に実行に移すことなのです。「後で・後から」では、必要性が無くなって、役に立たないものです。神さまの必要なことは、瞬々刻々、目まぐるしく変化するのです。今右へ行くことが必要でも、次の瞬間には、左に行くことが必要になるのです。時間がずれては、神さまの御心と反対のことをしてしまって、邪魔をすることにもなるのです。神さまの導きは、常に第一直感の中に有って、直ちに実行する時に、必要な知恵も力も与えられるのです。

 日常生活の中で、どんな仕事をする時も、『スピード化』を心掛けることが、本心開発に大きく役に立つのです。
(1)限界を破ろうとする時に、本心は輝き出て来るのです。
(2)スピード化すればするほど、高次元波動の番組に波長が合い、それが現実化して来るのです。
(3)真剣な心に、高級神霊が感応して来るのです。
(4)能率的に・効率的にというのは、神さまの知恵の産物であって、神さまの知恵に波長が合うのです。
(5)全力を出し尽くす時に、神さまの力が流れ入って来るのです。
(6)働きが増大すれば、与える量が多くなるのです。即ち借りが減り、貸しが増えるのです。換言すれば業想念の心が消され、本心の心が輝き出て来るのです。

 神さまへの奉仕には、高い能力も必要です。スピード化を心掛けて、高い能力を引き出すことが大事です。神さまの御心に使っていただく為には、あらゆる能力を磨き出す必要があるのです。真剣な特訓が必要なのです。本当に神さまのお役に立ちたいのであれば、どんな仕事も、自分が全責任をもって、迅速に果たそうと、全力を尽くすことが大事です。本当に神さまに好かれ、守りに護ってもらう為には、(1)全責任を持つ (2)全力を出し尽くす (3)真剣になる (4)行き届く (5)謙虚になる (6)素直になる (7)全体に気を配る (8)恩返しの心を持つ (9)感謝を深める、ということが大切なのです。



ありがとうございますノートから

 
責任有る生き方

 一切の責任は自分自身に在るのだ、ということを明確にすればするほど、本心は輝くのです。その責任から逃避したり、他に責任を転嫁していては、本心の自分を見失ってしまうのです。神さまと一体の、神さまの分霊である本心の自分は、常に一切の責任は自分自身に在るのだという立場から出発するのです。例えば世界に一人でも苦しむ人が居たら、それは自分の責任なのだと、本心の自分は無理なく思えるのです。そして謙虚な謙虚な心で、一心に神さまに祈って、その問題を解決しようと努力するのです。

 自腹を切る覚悟が無ければ、本当の責任ある生き方はできないのです。自分のすべてを捧げ尽くす覚悟が無ければ、どんな責任も果たすことはできないのです。自分のすべてを捧げ尽くして、一切の責任をとろうとするところに、真の神の助けが降りて来るのです。我欲を捨てて、自我を死に切って、無欲・無我・無心の心に成った時に、真の神が現れるのです。一切の責任を自己に帰す心は、真の神の御心と一致するのです。一切の責任を取ろうとする大犠牲精神の持ち主は、真の神の座にまで引き上げられて、中心に立つ者となるのです。即ち本心の自分に戻ることができるのです。

 地球の滅亡を防ぐ為に、いのちを捧げて、全力を尽くし、その全責任を負います、という覚悟ができたら、直ぐに本心の座に引き上げてもらえるのです。そして真の神が応援に付いて、無限の能力を授け、必要な働きをさせて下さるのです。誰かがしてくれるだろうと、他に責任を転嫁していては、本心の自分に戻ることは永遠に不可能です。責任の重い立場に自分を置かない限りは、本心の自分を引き出すことはできないのです。いつまでも先送りしていたら、本心の自分に戻るチャンスまで失ってしまうのです。

 大自然の悠久の神秘に触れ、大自然の無償の恵みに感謝し、大自然の『声無き声』に耳を傾け、一日も早く、『万物の霊長』として、報恩に生きなければならないのです。人には地球の調和を守る、使命と責任が有るのです。それを逆にして、地球の調和を乱しに乱しているようでは、人の存在価値が問われることになるのです。物質文明を謳歌する贅沢三昧な生き方は、地球の調和を乱し、霊的精神的な幸せをも奪って来たのです。今一度、真の幸せとは何かを、しっかりと見極めなければならないのです。欲しいものと必要なものとの区別を付けて、本当に必要なものだけで満足できる自分にならなければ、人類と大自然との調和は保てないのです。自分一人の『勇気と責任』の有る生き方が、地球人類の生き方を決定するのです。



ありがとうございますノートから

 
全力を尽くす

 本心の心の自分は、自己内在の神の力に信頼して、常に限界破りに挑戦し、全力を出し尽くして、無限の能力を発揮しようとするものです。与える心を生きる本心の自分には、自己内在の神の力が湧き出て来るのです。だからどんな苦労も苦にならないのです。全力を出し尽くして働くことに、大きな生き甲斐と喜びを見出せるのです。他に対してより多くの幸せを与えることが、自分の無限の無限の幸せに直結しているからです。求める心を生きる業想念の自分には、自己内在の神の力は湧き出て来ないのです。だから必ず行き詰まり、七難八苦に見舞われることになるものです。

 正しい人生の目的・目標を定めたならば、粉骨砕身して働くことに、真の生き甲斐と喜びを見出せるのです。どんな苦労も厭わないのです。苦労が多いほど、喜びも大きくなるのです。大きな責任を背負うことに、大犠牲精神を発揮することに、大きな生き甲斐と喜びを味わうことができるのです。神さまの御心のままに生きるということは、自分の方から神さまの願いを汲み取って、その願いを実現する為に、必要なことに全力をつくすことなのです。指図されたり、動かしてくれるのを待っていたら、何もできないのです。



ありがとうございますノートから

 
与える心と絶対奉