*再生できない場合

(Special Thanks To Ryuusennji)




MUROJI    ・井上義衍老師

<生死は仏の御命>

  人が死んだといいますと、死というものを問題にする。その問題にしているのは、誰が問題にしているのかといいますと、他人の死じゃなくて、人が死んだといいながら、自分のことです。
  いいですか、死に対する自分の見解なのか、自分自身のことなのか。何も彼にも、みな、この自分の上に、ちゃんと現れるようにできておるものです。
  人間、否すべてのものは生まれたから死ぬようになった。そういう活動体です。死んだら活動はなくなるのかというと、ある。
  どのような活動かというと、冷たくなってゆく、顔色が悪くなる、固くなる、叩いても、つねっても痛いといわん、葬儀告別にて家族縁者、友人知人に見送られて家を出てゆく、灰と骨になる、埋もれば土となる。これが人及びものの実体です。「われ死なば、どこえもゆかぬ、ここにおる、尋ねするな、ものはいわぬぞ」 一休
  どこえもゆかぬ、行き場はないんです。ここにおる、こことはどこなんですか。普段の心掛けとして、今、触れて活動しておる、そのことだけ、底抜け。
  眼の本来もっている働きに任せる、底抜け。(老師手を上げて)これは、どこにありますかというと、頭が動く、考える。その時は見えていない。故にダマされる。眼はひとつもダマされんのです。その時、その時の動きに学ぶと、どうあるべきかということが、きちんと分かるんです。道元禅師は、「生は生なり、死は死なり」と申された。

<諸法の仏法になる時節>

  一般の人が諸法というておるのと、仏法でいう諸法とは違うんです。そこに目をつけていただかなければならんことがある。
  道元禅師が正法眼蔵 現成公案の巻に「諸法の仏法になる時節」と説いておられる。
  一般の人が「諸法」というのは、実体としてのものを認めるのです。それが中心となってほとんどの人が諸法というておられるのですね。それでは救われんのです。
  そういうように見(けん)を起こして、ものを認めておるような状態ですと、この身心の実相が分からんのです。自分自身の真相が。
  「仏法なる時節」ということは、諸法といわれているものが、向うにものとして存在しておるように思われているものが、「そうじゃない、この身心の姿だよ」ということです。
  この身心のすべての動きが、仏法でいう「諸法」なのです。次から次へ本当に自在に動く、それが仏法でいう「諸法」なのです。
  向かえばある。見ようと思うて見えたのではない。向かえばいきなりある。それが私どもの真相です。
  六根の働き、すべて自分の実物なんです。道そのものの実物なんです。
  人の見解の上に持っている人間(自分)を捨てる、自己を忘ずる体験によって、「仏法なる時節」現成です。

<義衍語録>

 ●釈迦が脱落せられた時に始めて仏法は生まれたんです。
 ●修行する以前から、みんな身に備わっておるのが「道」なんです。
 ●向かおうとするだけ余分だった。そういうことがはっきりすればよい。
 ●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、それが迷いの根源なんです。それを人類ことごとく知らんのです。
 ●本当に徹する時分には、自分も環境も、何も彼にもみな忘じてしまって更に見るべきものは何もないところまでゆかんと、実相としての、法の真諦(しんたい)としてのものに徹することはできないものです。
 ●人間の知覚とか、認識とかが間(あいだ)にさしはさまるものですから、そのために真実というものを分断するのです。
 ●「仏法に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」いつでも、すぐにものと自分とが一如になって、いつでも死んでいるんです。どんなものだって、みんな、そのものに同化されてしまっておる、その形容です。
 ●「分からない」ということと「得ました」ということと、どちらもその程度です。同じことです。同罪です。喜んだり、悲しんだりする気配がどうしても残っているんです。その両者がコロツとない。帰家穏座(きかおんざ)です。

 ●出てくる思いは、全部使える人になればよい。
 ●正受(しょうじゅ)とは、その通りにあるということです。
 ●地球上にある、すべての問題は人間が作った。ゆえに人間が解決できないことはない。
 ●当てにならんものを当てにするから、それで苦労するんです。
 ●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、その人間、その人の考え方なんです。

<説法>

  説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。
  それですから「本性の理」というんです。「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。各自、人々分上(にんにんぶんじょう)、自分の鼻で自分で呼吸しておる。
  だから、どのようなことが、どのように起こってみても、決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。
  法それ自身が、法それ自身として活動しておる。大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。生命(いのち)をかけての大問題です。自己を忘じ切ったところにおいて、自己なくして行われる様子がある。
  私が手を打てば「ポン」どうしても、みなさん、そうならなければならんようにできあがっておるんです。「ポン」どうですか。
  それが本来の面目です。すでに是の如く他に行き場はないんです。そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、どうにもならない状態であったということです。

<一心生ぜざれば萬法に咎なし>

  「即心是仏」「非心非仏」と、これ同じか、これ別かと問われると、一念、ひょいっと何か思えると、それを掴(つか)まえて問題にしはじめるから、次々にいろんな思いが起こる。更にそれを追求する気持ちが起きるために分からなくなる。
  初めから脱体現成としてはっきりしておる。人といわれる道具(六根六境の働き)そのものは、一切のものを否応なしに、どうしても、見れば見る、聞けば聞く、いちいちそうしか動きようのないようになっている。他の活動のしようはないんです。
  どこへ行っても、どんな縁に触れても、必ずそういうふうにコロッコロッとゆくようにできておる。そこなんです。
  眼は見るといわんのです。鼻は嗅ぐといわんのです。機能の自活動です。人は自分の鼻で匂いを嗅ぎ、自分の眼でものを見る。そういうところに執着というものが残っておるんです。
  各自、自分たちの手づかずの大きな境界です。事実は人の分別心と繋(つな)がりのないものです。それ故、起きてくる自分の念をそのままにしておく。そうなっている。気になった時は出た後(あと)。出たからそれをみた、みたから出ないほうがよい、無い方がよいと教えられ思い込んでおるから。出たらそのまま、きがついたらそれだけで終わる。

-以上 平成24年 龍泉寺カレンダーより-

<迷われない>

  「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。それは通常迷っている、悩んでいることだと思っている。そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。
  「どうしようか」という時、「どうしようか」ということがあるだけ。「こうしようか」という時、「こうしようか」ということがあるだけです。
  いろいろ、その先のことを考える。迷っているんじゃなくて、考えの中にいるだけです。考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。
  これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡るために叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。
  今の自分の在りようです。考えとしての動き、その動きに教えられればよい。動きとしての事実に教わればよい。その動きに対して考えが動き、考え方で取り扱うのが人の常。
  「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。

<必然性>

  眼にはもの、私どもが環境環境と言うておる相手の世界、その相手の世界と思はれておるものが、実はみな、このもの(自己)の上に現れて活動する、それ自体です。
  私ども、どういうわけか、この「人」といわれておる、このもの(自己)の上に、あらゆる相手の世界、環境といわれるものが、必然に現われて、そして活動する以外に活動というものは何もあり得ないものです。そういうふうに出来ておる。「至道(しどう)」とも「道本円通(どうもとえんずう)」とも「本来の面目」ともいう。

<変幻自在>

  私どもは、犬にもなれば月にも花にもなる。どんなものにも化(ば)けながら、どれにも化かされないようにきちっと出来ているのです。
  化けるのなら思い切り化けてみるがよい。何にでも化けながら、それで自分自身に化かされさえしなければいいのです。
  自由な自分の真相を知って、そしてそれに自由に動かされて活動する。そういう自分を本当に知ってみると面白い。これぞ、自己の真面目である。

<本来空>

  我見をこれから離れるのではない。
  我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
  我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
  空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。それが「道(みち)」です。それが座禅の一番大切な様子です。

<知は是れ妄覚>

  無明(むみょう)とは、認識ということです。認識とは、ものを認める心。ものを認めて執着をする。それでだまされるんです。人間生活というものは、この認識以後の生活なんです。因果のほかにまったく道なしと看破された。因果を看破するうえに極めて重大なことである。
  それは、自己が法を見るのと、法が人を見るのとの相違である。己見があれば、それだけまじり気がある。不純である。

<確実性>

  「道とは能通(のうつう)、満つるなり。」と
  眼ともの、耳と音声、鼻と香り、舌と味、どちらにも主体がない。ないながら、必ずものと一如になって動かざるを得ない在り方を「道(みち)」という。
  その必然性の在り方を「道(みち)」といい「心」という。(心意識の働きの心ではない)
  是の如く、事実とは、今ある様子のみ。それを知る主体がないのと、知って認識したもの、それを事実だと取り扱うのとの違い。全く異(こと)なるもでのである。取り扱うのは人の見(けん)です。見方です。
  「オイ」といえば、必ずそうしか在り得ない確実性です。
  事実が事実として分かる。人の見解が入らねば必ずそうある。
  その時、その時の動きだけで全てが足りている。留(とど)まるところがない、後戻りは出来ない。
  人が生きているということは、全て初めての体験、一度もやったことにない生活、古い体験に用はない。
  その時、そのことが在るだけ。

<義衍語録>

 ●六根という機能、この道具立て自体に全部を任せてしまえばいいのです。これが修行の着眼点です。
 ●決まりのないものが、決まりのないままに、自由に他意なく活動する状況が因果である。
 ●縁起(よりて起こる)私と私以外のもの、眼とものが触れ合うと、見えるという生命が生まれる。それを仏性という。
 ●六官の作用そのままに、一切の探りをみな捨てて、ただ生(なま)で、その時、その時に、ただそのことでやってごらんなさい。そうすると必ず解決ずみであることが「あ、本当じゃ」ということが、はっきりするのです。
 ●いきなり、そのままの状態にブチ当たったらよい。それが悟りという体験です。
 ●徹するということは、どういうことかといいますと、自分も、ものも何もかも、本当になくなってしまう様子があります。そこまで、本当に落ちてしまうと初めて納得ゆく。

 ●禅は、自分の事実を実証する道である。事実は自己の現成である。
 ●脚下照顧とは、今の己の在り方、その事実に眼をつけてゆくことである。
 ●自分を抜きにした生活は在り得ない。自分そのものに学ぶ、自分そのもので生活をする。それを座禅という。
 ●その時、その時の動きだけで全部足りている。
 ●地球上にある、すべての問題は人間が作った。ゆえに人間が解決できないことはない。

-以上 平成25年 龍泉寺カレンダーより-